夏休み日本縦断の旅 7日目② 山陽本線途中下車の旅

岡山での昼休憩を終え、12時53分発の糸崎行きに乗ります。227系の数も増えていますが、やって来たのは115系でした。3両編成の車内は少し混み合っており、地元の方が中心でした。列車はモーター音を唸らせながら、山陽本線を西へ進みます。

115系車内より、瀬戸内海を臨む

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山形を旅して(その2)

2日目(11月11日)続き

酒田港線ではDD200を撮っただけに終わりましたが、事前の調査不足のせいと納得しレンタカーで次の地点へ向かうことにしました。酒田の豪商 本間家は最上川水運と北前船による物流で巨万の財を成しますが、その富を酒田の海岸線に広がる砂丘の緑化事業に投じ、酒田の町を砂嵐から守ることが酒田の繁栄につながると何代にもわたって続けるだけではなく、庄内藩、米沢藩の財政を支えた篤志家でした。その本間家が力を注いだ砂丘地帯に広がる広大な黒松林を抜けて国道112号線を南下します。庄内空港を過ぎるとこの地の名刹 善宝寺があります。

かつて鶴岡を起点に海岸の湯野浜温泉まで庄内交通湯野浜線がありました。昭和50年3月に廃止され、既に50年を経過しますが、その中間駅 善宝寺駅跡にモハ3が残されているので見に行くことにしました。

昭和40年8月24日 高校1年の夏休みに友人と東北旅行をした際に鶴岡駅で車窓から撮影。

モハ3は高校1年生の夏休みに友人と東北を夜行列車乗り継ぎで1周した際、上野発秋田行き臨時急行「男鹿」の車内から撮ったのが最初の出会いでした。昭和5年日車東京製で、小さな車体に似合わない大きなパンタグラフが印象的でした。

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山形を旅して(その1)

クローバー会のホームカミングデーや写真展は毎年欠かさず参加していますが、そのためだけに上洛するのはもったいないので、なるべく鉄分補給の旅を兼ねることにしています。今回はホームカミングデーのあと、山形方面への旅を計画しました。東北地方は何度も訪れているとは言え、やはり訪問先には偏りがあります。近年は東北地方に限らず、県庁所在地訪問を旅のテーマにしていることもあって、今回はまだ訪問したことのない山形市をプランに組み込みました。

ホームカミングデーの懇親会を少し早めに退席して阪急電車で蛍池に向い、家内と合流し伊丹空港で1泊し、翌11月10日早朝のJAL便で新潟へ向かいました。山形県は日本海沿いの庄内地域と内陸部の最上地域、村山地域、置賜地域の4つのエリアに分かれています。今回は新潟から羽越本線で北上して鶴岡、酒田の庄内地域に入り、月山の麓を越えて寒河江、天童、山形の村山地域に入り、更に仙山線で奥羽山脈を越えて仙台から空路広島に戻るルートを設定しました。新庄の最上地域や米沢の置賜地域はパスです。

新潟・酒田間は特急「いなほ」が早くて便利なのですが、観光列車 快速「海里」でゆっくり日本海の景色を楽しむことにしました。「海里」は4両編成のハイブリッド電車(昔風に言うと電気式気動車)で、新潟寄りから①HB-E302 6(ダイニング)+②HB-E300 6(イベントスペース・売店)+③HB-E300 106(コンパートメント)+④HB-E301 6(座席指定車)となっています。この観光列車のコンセプトは地元食材による食事提供が売り物で、1号車はそのための食堂車、2号車には全く客席がなく、売店では 予約された弁当の手渡しや酒類の販売が行われ、3号車は山側通路の個室席、4号車は全シートが元々少し海側に向くように固定された座席車です。今回 海側の指定席が取れてラッキーでした。我々はグルメ旅ではありませんので、新潟で買った駅弁持参です。JR東日本は「海里」に力を入れているようで、新潟駅出発時にはホームでのお見送りがありました。しかし残念ながらこの日は平日だったせいか、乗車率は30%程度で、盛り上がりに欠けた出発となりました。

令和7年11月10日 新潟駅4番ホームでの快速「海里」出発お見送り

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客車廃車体訪問記 内地編81 群馬県-6

【嬬恋村 紀州鉄道軽井沢ホテル】 36.461752, 138.563207 2022年9月15日撮影
オロネ10 88,90,91
日本の代表的避暑地軽井沢の山奥にも廃車体がある。
軽井沢で下車したのは初めてである。どんな所かと思ったが駅前一帯は霧がかかって数10メートル先が見えない。それにかなり寒いので町の散策はやめにした。

軽井沢駅南口 続きを読む

夏休み日本縦断の旅 7日目① 山陽路を西へ

9月2日(月)

京都 8:30 ― 3421M新快速 姫路行き → 姫路 10:08

姫路 10:09 ― 957M 播州赤穂行き → 相生 10:28

相生 10:29 ― 1313M 岡山行き → 岡山 11:38

岡山 12:53 ― 1735M 糸崎行き → 糸崎 14:26

糸崎 14:54 ― 327M 岩国行き → 岩国 17:09

岩国 17:17 ― 2237D 徳山行き → 徳山 18:36

徳山 19:03 ― 3343M 下関行き → 新山口 19:48

旅もいよいよ後半戦。京都駅6番のりばよりスタート。

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夏休み日本縦断の旅 6日目② おもへば夢か時のまに

熱海から浜松までの所要時間は2時間半、ロングシートでの移動でしたが、思いのほか早く通り過ぎたという印象です。長旅に慣れてしまったせいかもしれません。

熱海から211系電車に揺られること2時間半で、浜松に到着。

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夏休み日本縦断の旅 6日目① 東海道線普通列車の旅

都心に残るのんびりした朝の風景に溶け込む池上線。(旗の台にて)

8月26日(月)

旗の台 7:25 ― 溝の口行き → 溝の口 7:44

武蔵溝ノ口 7:50 ― 712F 川崎行き → 川崎 8:12

川崎 8:20 ― 1833E 熱海行き → 熱海 9:50

熱海 10:00 ― 435M 浜松行き → 浜松 12:29

浜松 12:46 ― 955M 豊橋行き → 豊橋 13:18

豊橋 13:32 ― 2525F 快速 大垣行き → 大垣 15:01

大垣 15:09 ― 235F 米原行き → 米原 15:44

米原 15:47 ― 3491M 新快速 播州赤穂行き → 京都16:42

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客車廃車体訪問記 内地編80 大阪府-4

【大阪市住之江区 保育園】 2024年1月3日、4月11日撮影
オハ50 173,174
◆2両とも1980.2.22富士重工業新製 亀山配置 → 1986.11.1向日町 → 1989.3.11姫路1990.3.28廃車

4月11日撮影。画面右がオハ50 173、左がオハ50 174

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福知山のC57たち

老人になると徐々に外出をしなくなり若い時代の思い出にしがみつくようになる。音楽もスポーツも皆そういうことが言えそうだ。最も長く続いている鉄道趣味も全く同じである。

前回の新津に続いて福知山のC57を題材にしてみた。中高生の時は福知山線を走るC57が、大学時代は山陰本線の京都口に出入りするC57が案外身近にあった。先輩方の記録を見ると福知山にはC57の前はC54やC55が在籍していたがカメラに記録するとなるとまだ若過ぎた。さらにC57には急行列車「出雲」牽引時にヘッドマークが付いていたがこれも勿論見ることはなかった。今のイベント列車にはない本物の良さがあった。

さて、例によって1963(昭和38)年4月1日付国鉄動力車配置表によると福知山区のC57は10、11、36、41、58、85、87、93、128、152の10両が在籍し今でもスラスラ番号を言えるがこの時代の蒸機ファンにはどおってことはない。この中で九州出身の10だけは写す機会がなかったのは残念である。

それではまず福知山線で大阪に顔を出していたC57である。1961(昭和36)年10月1日に宝塚を出る724列車篠山口発大阪行きのC5793が私のC57撮影のファーストショットである。この日は各地に特急ができた記念すべき日であったが宝塚で京都発7D「まつかぜ」松江行きの撮影を行いその直後に撮ったもので出発後の後ろ姿である。▼

続いては1962(昭和37)年12月16日の篠山口での交換列車726列車福知山発大阪行き牽引のC5741である。この日は同行の趣味の友人と朝一番列車で豊岡区や和田山支区のC55を撮影に出かけ途中交換する列車を片っ端から撮っていた。C5741は素晴らしいナンバーを持つ綺麗な機関車だったが後に宮崎へ転属して行った。▼

1965(昭和40)年3月5日道場-武田尾間の武庫川渓谷沿いの旧線で撮影中に急に門鉄デフのC5711牽引の上り客車列車がC57152を補機に従えてやってきた。急に来たので驚いて撮ったので大ピンボケであるが門鉄デフのC57を始めて撮りしかも補機付きであったので恥ずかしながら敢えて貼り付けた。平坦線の福知山線では補機不要であり、多分回送列車と思う。▼

C5711は超有名な機関車で九州時代は特急「かもめ」専用機で門鉄デフには翼と波模様が装飾されていた。福知山に来てからは重油併燃装置がつけられさらに豐岡区の播但線時代は集煙装置も装備され九州時代の美しさは損なわれた。播但線溝口付近の上り貨物690列車を牽引する同機。▼

C5711は豊岡市の中央公園に集煙装置と重油併燃装置は外されてすっきりした姿で保存されていた。2013(平成25)年8月30日撮影。▼

今度は山陰線本京都口であるがここは金沢や水戸などから梅小路に転属してC51を追い出したすっきりしたスタイルのC57が幅を利かせていた。福知山区のC57の走行写真の記録は少ない。1969(昭和44)年2月6日雪の降った馬堀付近を行くC57128が牽引する1725列車園部行きで横から見るとドームの後ろの重油併燃装置が梅小路区のC57にはないので違いが直ぐわかる。但し、梅小路区のC57には和歌山から来た戦後製第4次型C57190は重油併燃装置と集煙装置がついていた。▼

2013(平成25)年12月23日貝塚恒夫さんに車で案内していただいた大津市遊びの森公園に保存されているC57128でこれも福知山時代の重油併燃装置は外されて展示されてすっきりしていた。▼

次に各機関区で撮った所謂車両写真である。

1969(昭和44)年2月22日福知山機関区のC5787で集煙装置と重油併燃装置付きで加えてボイラの前面が角張っているのが残念であった。▼

福知山線のC57は大阪到着後宮原に行き給炭後次の仕業を待っていたと思われるが私は宮原機関区には行ったことがないので詳細はわからない。一方梅小路機関区は時々C51やC57などを求めて行っていたが福知山のC57も見ることができた。

1964(昭和39)年5月4日梅小路区に憩うC5785でボイラー後ろの重油併燃装置は福知山区や天王寺管理局管内の奈良、亀山や和歌山のC57にも見られた。▼

C5785も九州吉松に転属し吉都線で再会した。1972年5月1日吉都線鶴丸付近で貨物を牽引する同機。春闘の時期で機関車は落書きだらけでこれが九州の機関車なのかと驚いたものだ。重油併燃装置は取り外されてドームはC55に近い形になっていて除煙板も点検用に切り取られていた。前照灯はシールドビームで2灯化され醜くいものだった。1972年5月1日都城支区のC5785[吉松]。▼

最後に1964(昭和39)年5月4日梅小路機関区で撮ったC57128の車両写真。ロッドの位置も決まっており思い出の写真の一つである。▼

夏休み日本縦断の旅 5日目② 首都圏を満喫

急に涼しくなり、京都では時代祭の日。『相棒』の新作も先週から放送開始と、一気に季節が進んだ印象です。このシリーズも、ようやく折り返し地点です。それでは、5日目の続きをどうぞ。

首都圏に来たことを感じさせてくれるE233系電車。(高崎にて)

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客車廃車体訪問記 内地編79 山梨県-1

【富士急行 下吉田駅】
35.497831, 138.803697 2022年6月10日撮影
スハネフ14 20
◆1972年3月3日新潟鐵工所新製→1984年6月20日大宮工2段寝台化→2010年10月23日廃車

天気が良ければホームから富士山が見えるはずであるが生憎雲がかかっていた。
現車の貫通扉には「富士」の愛称が見えているが、説明板には「本車両自体は『富士』として走行しておりません」と書いてある。しかし、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」等で富士山の見える線路を走り、引退後は富士山の反対側で余生を送ることになったのは良かった。 続きを読む

 ここらでボンネットバス 近畿編 〈17〉

奈良交通 (3)

奈良交通のボンネットバスは、その後も観光目的の路線バス、また定期観光コースにたびたび使われて、すっかり奈良の名物となります。昭和57年9月23日からは、定期観光バスとして新設されたHコース「たそがれの古都めぐり」に、ボンネットバスが充当されました。毎日運転の一日一便で、15:15に国鉄奈良駅前を発車、近鉄奈良駅前に寄ったあと、興福寺、唐招提寺、薬師寺、平城宮跡、さらに新薬師寺を回って約3時間で元に戻るというコース、料金は2050円でした。今回も、最初は乗車してコースを熟知し、撮影地などを見聞したあと、後日撮影に向かいました。 「奈2あ18-67」が専用で使われた。

白鳳伽藍の薬師寺や、鑑真和上ゆかりの唐招提寺と、西ノ京エリアに足を伸ばしたのが、今回の「たそがれの古都めぐり」、あらたな撮影ポイントも提供した(昭和58年10月)。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈16〉

奈良交通 (2)

奈良交通のボンネットバスは、前記のように昭和54年(1979年)2月に、一般の路線バス路線から撤退します。この頃、ボンネットバスへの関心が高まり、各地で観光用に転用される例が多くなりました。奈良交通の地盤は、まさに最適の地であり、ボンネットバスの活躍が再び見られるようになります。その後、奈良交通のボンネットバスは、休眠と復活を繰り返し、現在でも奈良交通創立70周年記念に再々登録され、貸切ツアーなどで活躍しています。〝ボンネット号〟の愛称を付けて、路線の廃止後、バスガイドを乗せて復活することになった「奈2あ18-66」(以下、昭和54年5月)

 

 

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客車廃車体訪問記 内地編78 香川県-3

【雲辺寺ロープウェイ第二駐車場】
オハネフ25 206、オハネフ25 2209 34.057120, 133.706819 2024年1月26日撮影

オハネフ25 206(西側) オハネフ25 2209(東側)
廃車体訪問記 内地編51 鹿児島県-1 あくねツーリングSTAYtion で報告した2両が遥々と四国霊場第六十六番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)のロープウェイの麓、第二駐車場に引っ越した。寝台車を活用した宿泊施設らしいが、訪問時に見たところではこれから工事を開始する感じであった。広々とした場所で、伸び伸びと過ごしてほしい。 続きを読む

夏休み日本縦断の旅 5日目① 上越国境を越えて

今日は鉄道の日ですね。私の旅行日記も少しずつ、鉄道発祥の地へと近づいてまいりました。それでは、5日目の様子をお届けいたします。

高崎にて並ぶ211系電車。

8月25日(日)

燕三条 9:11 ― 229M 東三条行き → 東三条 9:18

東三条 9:42 ― 432M 長岡行き → 長岡 10:09

長岡 10:34 ― 1732M 水上行き → 水上 12:56

水上 13:17 ― 740M 新前橋行き → 新前橋 14:10

新前橋 14:12 ― 630M 高崎行き → 高崎 14:22

高崎 15:36 ― 1899E 小田原行き → 籠原 16:10

籠原 16:13 ― 2847Y 快速 平塚行き → 渋谷 17:38

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 「信号場」を巡る  ⑩

飯田線 大沢(おおさわ)信号場

私鉄が出自で、駅数の多い飯田線にも、一ヵ所だけ信号場があります。伊那田島~高遠原にある大沢信号場で、輸送力強化のため昭和41年3月に開設、同時に伊那本郷、伊那新町にも交換設備が設けられています。ちょうど天竜峡〜長野の「天竜」、新宿〜駒ヶ根の「こまがね」など、飯田線にも優等列車が新設された時期と重なっています。大沢信号場は、周囲は果樹園が広がっていて、伊那盆地の扇状地にあり、西から東へとなだらかに傾斜しています。上り線(豊橋方面)が東側に腹付けで線増されました。一線スルーの大沢信号場を右側通行して行くED19 4の牽く上り貨物。乗車した対向列車の窓から撮影、右手で乗務員が敬礼の仕草をしているように見える。タブレット閉塞で、係員が常駐していた。昭和58年に飯田~辰野がCTC化され無人化された。現在でも交換が行われているようだ(昭和45年8月)。

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 「信号場」を巡る  ⑨

前回の「信号場」、窓から写しただけ、列車も後部から写しただけ、そんなテーマでも皆さんから暖かいコメントをいただき感激しています。こんな年寄りのテーマでも、地道に続けていけば報われる、そう感じてまた続けます。

篠ノ井線 桑ノ原(くわのはら)信号場

いまも現役、しかもスイッチバック式と、貴重な桑ノ原信号場。乗車した新宿発長野行き421レから、通過していく長野発甲府・名古屋行き446レを見る。スイッチバックらしく、わずかに高低差があることがわかる。446レは甲府・名古屋行きとなっているが、名古屋行きは松本から連結と時刻表の脚注にあった。平坦な松本~塩尻は2列車併結、12両以上で走ったと思われる。、DD51 37[長]+客車7両 (昭和43年2月) 

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客車廃車体訪問記 内地編77 石川県-5

【のと鉄道七尾線能登中島駅】

・オユ10 2565  37.109469, 136.853466 2021年5月4日撮影
訪問記内地編59石川県-4で報告した能登線甲駅のオユ10 2565が、能登中島駅に引っ越したので行きたいと思っていた。新型コロナが流行していたゴールデンウィークだったので、鉄道は避けて車で行ったが高速道路も一般道も全く混んでいなかった。

現車は能登中島駅入口の横にあり、外回りは自由に観察することができた。
手前側が前位である。郵便標記や形式番号標記はGマーク付きで本職が真剣に書いたようなのに、MR、配置、荷重、軸箱の①,②や全検他、細かい標記は省略している。
天気が良く、1987年春に甲駅で撮影を始めた時、突然猛吹雪が襲ってきて寒くなったのを思い出した。

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夏休み日本縦断の旅 4日目② 新潟の街を観光

先週の投稿を総本家青信号特派員様が引用してくださりましたが、その中で羽越本線を走るC57形が紹介されていました。今回は、少しだけ関連した内容もあります。

高架化された新潟駅に並ぶE129系電車。

さて、村上からの普通列車は新発田から白新線に入り、16時22分に新潟に到着しました。新潟駅は高架化され、発着する列車も全て新型車両となり、雑誌で見た地上駅時代の面影はありませんでした。駅前広場は新しいバスロータリーの工事中でした。

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 「信号場」を巡る  ⑧

では「信号場」を続けます。北陸本線は、羽越本線と並んで日本海縦貫線を形成し、列車ダイヤも輻輳し、信号場が各所に設けられました。北陸本線は東へ向けて電化工事が進捗し、撮影した昭和44(1969)年当時、糸魚川~直江津が最後の非電化、単線区間として残っていました。

北陸本線 百川(ももかわ)信号場

非電化区間の糸魚川~直江津にあり、能生~筒石6.4kmの間に、昭和37年9月に開設された。2線だけの標準的な信号場だった。昭和44年9月、浦本~有間川は、長大トンネルを含む複線電化となり、ほとんどの区間がルート変更になり新線に切り替えられ、能生、筒石、名立の3駅が移転した。糸魚川~直江津にあった木浦(信)、西名立(信)とともに、百川信号場も廃止された(昭和44年8月)。平坦な場所に設けられた、ごく平凡な配線の百川信号場である。直江津~糸魚川間は、区間内の信号場はすべて廃止となった。信号場が設けられた能生~筒石といえば、昔から日本海が迫る海岸沿いのルートで有数の地滑り地帯として過去に多くの災害が発生していた。とくに記憶に残るのは、昭和38年3月の能生での大地滑りにより列車が巻き込まれ、牽引していたC57 90が日本海まで押し流された。機は現地解体されて廃車になったが、剥がれ落ちたナンバープレートを救助に向かった国鉄職員が抱きかかえている写真が、「鉄道ピクトリアル」に載っていたことが記憶に残っている。

「白鳥」交換 昭和36年10月改正で82系特急「白鳥」がデビュー、上下の「白鳥」が、隣駅の能生で運転停車して交換することになった。能生にも「白鳥」が停車するとカン違いした地元民が運転初日、花束を持って歓迎式をしたところ、「白鳥」はたしかに停車したものの、ドアは開かず、反対方向の「白鳥」と交換すると、さっさと出て行ったのは有名な逸話(これは金鉄局が、能生は運転停車なのに、客扱い停車と思い違いして、地域に配布する時刻表に「白鳥」停車を載せてしまったことに起因すると言われている)。この百川信号場が新設されたのは、「白鳥」騒ぎの翌年のことになる(写真は、AHさんから提供していただきました)。