仁山スイッチバックその(2)

同じく1966年9月12日函館から40分くらいで行ける仁山の続きで今回はこれまであまり投稿などに使ったことがない気動車である。飛行機が今ほど発達していない時代に特急のキハ82系、急行のキハ56系等が道内では長距離運転を行っており改めて北海道列車輸送の重要な位置を占めていたものだと感じた。非効率なスイッチバックでの撮影対象は当然蒸気機関車であったがついでに撮った気動車群も脇役であったが旅客輸送では主役であったことは間違いない。

最初は3D特急「おおとり」で室蘭本線・千歳線経由釧路行き7連+網走行き5連の12連である。この列車は青森6時18分着急行「八甲田」と特急「はくつる」6時40分着を受けて青森7時5分に出港して函館10時55分に着く連絡船3便と接続する特急で函館11時15分発である。因みにこの「おおとり」は函館を出ると洞爺迄停車しない速達特急列車であるが石北本線の網走到着は21時58分、根室本線の釧路着は22時3分となる。上野から乗り通したお客さんはどれほどいただろうか。▼

次は函館13時45分発特急「北斗」室蘭本線・千歳線経由旭川行きキハ82系9連(旭川着20時27分)で勿論食堂車キシ80が入っている。同じ様にこの列車は青森8時40分着急行「第1十和田」と9時15分着特急「ゆうづる」を受けて青森9時35分出港函館13時25分着の連絡船5便と接続している。この様な旅はもう少し体力があるのならもう一度経験してみたいと思う。▼

もう一つ偉大な(?)長距離急行があった。特急「おおとり」の10分後11時25分に函館を出発する小樽まわり稚内行きキハ56系9連の急行「宗谷」である。当時の時刻表では684.5Kmを11時間45分で走破して稚内着は23時10分である。ほとんどの優等列車は平坦線の室蘭本線・千歳線経由であるがキハ56系の急行「宗谷」、「ライラック」と途中C62のダブルヘッダー(重連)になる客車急行「ていね」は小樽まわり(所謂山線経由)であった。この山線は今は見る影もなく廃線のうわさがあるという。▼

北海道は九州とともに旅行シーズンには観光列車が設定されていた。臨時急行北海道観光号「エルム」は大きなヘッドマークを付けたキハ56系6連であらわれた。9113D急行「エルム」は函館9時5分発小樽まわりで終着札幌は14時10分の到着であった。▼

北海道の気動車と言えば耐寒耐雪設備完備のキハ22が普通列車の主力で一部急行列車にも使われていたが函館本線には長距離の普通客車列車があったためかあまり見かけることはなかった。森行の625D はそのキハ22系と暖かい道南や苫小牧地区に多かったキハ21系との混成であった。▼

D52やD51の大型機が多い中で夕刻39655がこの日の補機担当である回送の逆D51710を従えて下ってきた。両機共に五稜郭区所属であるがどこから来たかは不明である。▼

前回の「スイッチバックその(1)」で少し触れた急行「ていね」105列車札幌行きの後ろ姿でC6230[小樽築港]+客+D52201[五稜郭]が上ってきた。加速線には入らずそのままスピードを上げて札幌方向に向かって行った。セノハチの特に特急「かもめ」を彷彿させるものと勝手にこじつけたが食堂車を連結する急行列車に山陽路の難所を行く看板列車を重ねてみた。▼

今よりもずっと不便な時代であったが私にとってはとても楽しかった時代の一コマである。

 

夏休み日本縦断の旅 1日目② 札幌都市圏へ

1日目のゴール、札幌に到着。

旭川からは函館本線の普通列車に乗車。ここからは電化区間となり、電車が活躍します。隣のホームには、札幌と旭川を結ぶ特急<ライラック>と<カムイ>が並んでいました。

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仁山スイッチバックその(1)

北海道では石北本線常紋と並んで函館本線仁山はスイッチバックの名所であった。総本家青信号特派員さんの綿密な常紋の報告の最後にお前も仁山の報告をせよとのお達しがあった。仁山はこれまで鉄道ピクトリアルに掲載してもらったことがありさらに総本家さんの紹介で江上英樹さんという最近の最高傑作「スイッチバック大全」の著者にも同誌で仁山を紹介いただいた。従ってこれまでのデジ青を含めダブリの写真も多いが敢えて投稿させていただく。

仁山を簡単に説明すると函館本線は渡島大野(現在は新函館北斗と改称)から大沼(1964年までは軍川)にかけて20%の勾配が続き仁山越えの難所があった。仁山スイッチバックは戦前には旧仁山信号所の南北に引き込み線がある通常型であったが私の訪問した1966年には北側は撤去されて南側の引き込み線(加速線)のみが使われていた。その私の訪問時は狩勝旧線廃止の直前であったのでこれと同じ時期に仁山に行ったようだ。この時は函館本線のバイパスとして藤代線が使われることになり、仁山経由は函館方面に向かう上り線専用となって実施上スイッチバックは使われなくなる予定であった。

言い訳になるが当時の函館本線は長大列車が多く仁山の地形では重連の場合は工夫して何とかなったものだが後補機付きの場合の見通しが悪く後補機は煙だけというのが多かった。撮影は1966年9月12日でカラーは45年後の2011年6月25日である。

この日はD51710[五稜郭]は補機運用だった。D51710の前補機+Ⅾ52136本務機の下り重連貨物で本務機の白い煙で前補機D51710の姿が綺麗に写った例である。▼

俯瞰できるのはこの程度であるが、D52138+D52140の重量級の重連の下り貨物の到着で前後のカマの煙が一致しないがまあ我慢できる記録である。▼

スイッチバックして加速線に入った同列車。ここでの撮影は一粒で2度も3度も美味しいグリコのようなものだ。▼

加速線上のD5127。普通客車列車はD51の単独運転であった。函館11時15分発123列車小樽まわり札幌行きで札幌到着は20時57分であった。牽引機は倶知安機関区所属のナメクジD5127でクルクルパーが気になるがナメクジは一般にボイラ端面が丸く給水温め器が煙突の後ろにないので正面から見るとC61に似た風貌で好みであった。▼

東日本大震災の後の2011年6月25日45年ぶりに現地を訪問してみた。加速線(引き込み)線は草むらに埋もれて使われた様子はない。▼本務機D51575[五稜郭]の下り貨物の後補機D51710[五稜郭]。本務機は少し見にくいが右にカーブした仁山駅にしさしかかるところである。▼

45年後の仁山駅の下り4833D森行きキハ40840+キハ40831。現地の人に訊いた話だが熊は出るとのことだった。クマに注意の看板はこの時には既に駅前に出ていた。▼

夕刻16時前にはC6227[小樽築港]の106列車函館行き「ていね」が坂を下ってきた。食堂車にはマシ35が入っているはずである。この日の105列車小樽まわりの札幌行き「ていね」はC6230[小樽築港]+PC+D52201[五稜郭]で山陽路の「かもめ」のセノハチを彷彿させるものだった。後になって恐縮であるがD52は全て五稜郭機関区の所属である。▼

45年後の同じ坂を下る駅よりの上り線のDF200-110[鷲別]の貨物である。草が繁茂して同じ様なイメージがない。▼

以上ひと昔前の大型蒸機があえいでいた仁山のスイッチバック風景を45年後の同地点と比較してみたが次回は気動車を中心に出してみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 「信号場」を巡る   ⑤

消えた常紋信号場を 列車から観察

常紋信号場は、昭和50年には臨時乗降場の機能を終えて、旅客の乗降がなくなり、時刻表から「常紋」の名が消えます。ただ、石北本線から蒸機が消え、貨物を中心に列車の削減が行われてからも、常紋信号場は、スイッチバック式の交換設備を持つ信号場としての機能が残っていました。そして平成23(2011)年に列車交換の設備は停止され閉塞の区切りとしての信号場となりました。そして平成29(2017)年、ついに常紋信号場は廃止され、常紋信号場は名実ともに姿を消しました。それから2年後の2019年2月に、北見から旭川まで特別快速「きたみ」に乗って、運転室前から、その面影を写して来ました。キハ54 503単行の特別快速「きたみ」3582Dは、石北本線の金華を出るといきなりの25‰勾配、エンジンの唸りも高らかに雪原を進む。右に左に何度もカーブすること数分、正面に、常紋信号場の交換設備のあった築堤が見えて来た、信号場時代に造られた大規模なスノーシェッドも見えて来る。

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夏休み 日本縦断の旅 1日目① 最北のローカル線を行く

旅の第一走者、普通列車名寄行き

8月21日(水)

稚内 10:28 ― 4326D 名寄行き → 名寄 14:17

名寄 14:42 ― 快速<なよろ>8号 旭川行き → 旭川 15:55

旭川 16:12 ― 2370M 岩見沢行き → 岩見沢 17:55

岩見沢 18:05 ― 244M 小樽行き → 札幌 18:47 続きを読む

 「信号場」を巡る   ④

スイッチバック式 常紋信号場

信号場の存在がファンの間に知れ渡るようになったのは、蒸機の撮影適地としてクローズアップされたことが大きいでしょう。北海道での代表は、やはり石北本線、生田原~金華にある常紋信号場でした。前後、25‰の勾配が連続し、スイッチバック、補機付き、そして、いわくのあるトンネルと役者が揃っていました。石北本線の遠軽から留辺蘂へ、山越えの途中、延長507mの常紋トンネルを抜けた先に位置するのが常紋信号場。分水嶺のある常紋トンネルに向けて、生田原側、金華側から25‰勾配が続き、信号場はスイッチバック式になっていて、段差を持って、列車交換が見られるのは、スイッチバックならではの光景。右の列車は混合列車で、ダブルルーフの事業用客車、白帯貨車も見られて、この時代ならではの編成(以下、昭和43~47年撮影)。

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戦時設計D52

昨日は8月15日で終戦記念日だった。当日の日経新聞の朝刊には寅さんの山田洋次監督(93歳で幼少期は旧満州育ち)が「僕には故郷がない」と書かれた旧満州の思い出の中にこの日の正午を機に坂の下に広がる中国人の貧しい家々の屋根に国民党の「青天白日旗」が何百本もはためいていたとの記述に戦争とはそういうものだと改めて感じた。「ザ・フォーククルセダーズ」で現在は白鵬大学の学長である北山修さんは「戦争を知らない」はありえないと述べておられた。

戦後80年で私は終戦の3か月前に生まれたので戦争の記憶はないが戦後の列車内に傷痍軍人が募金に現れた子供時代のことは覚えている。最近はDRFC-OBの方から猛暑見舞いを1通いただいたがこの暑さもあって出かけることもなく友人もどんどん減っていることを痛感している。デジ青のラインも覚えようとしないのでなおさらである。デジ青もご無沙汰して基本的な投稿の仕方を忘れてしまった。

戦争と言えば蒸機や客車に群がって乘る乗客や各地に空襲で焼けた電車などを雑誌等で見たことがあるが、今回戦時設計の蒸気機関車でその典型であるD52について私が撮影したものを紹介してみる。これは最近始めたフェースブックに載せたものをを多少アレンジしたものである。

電気機関車のEF13も当初は戦時設計と言われた凸型機関車で関東地区に多かったので見たことがないがD52は戦後20年経った木製板枠のテンダーやデフレクターとその他工程を省略したような機関車が山陽本線に残っていた。これはこれで好きな人もいたが戦争がもたらしたバリエーションの一種で趣味の対象となっても不思議ではない。

戦時設計と言われるものにはD51やC11などにもあった。よくテレビに登場する新橋駅の待ち合い場所に使われるC11も戦時設計の一つで最後は播但線で活躍していた機関車である。

1963年3月27日 下関駅付近の上り貨物牽引のD52460[柳井]でこの写真は光線具合もよく何度も登場させた。▼

1964年4月1日 小郡機関区の同区所属のD52126で正面の前照灯と煙突の間に給水温め器がなく戦時設計を色濃く残している。▼

1964年4月1日横から見たD52126▼

1964年4月1日D52126のテンダー(炭水車)でC58にも同じような船底型があった。▼

1964年4月1日小郡駅当方の上り貨物D52456[小郡]も粗野な感じが残っていた。▼

1965年3月5日福知山線武田尾-道場間727列車大阪発篠山口行きC11271[吹田第一]で機関車の二つコブが丸形でなく角形になっているので戦時設計がわかる。▼

2022年10月26日 東京新橋で度々テレビに出演の待ち合い場のC11292も戦時スタイルである。▼

 

 

 「信号場」を巡る   ③

ホームのある信号場 北豊津信号場

当時の北海道の時刻表を見ると、「キロ数」の欄が空白の駅があります。巻末に解説があって「キロ数を示していない駅は臨時の駅ですから、そこに行かれる際は、その先の駅まで切符を買ってください」と注釈があります。北海道に多かった臨時乗降場の類いですが、これには、もともと臨時乗降場として開設されたものと、信号場が昇格し旅客扱いを行ったものに分かれます。この北豊津は、数少ない臨時乗降場でした。北豊津信号場は、函館本線黒岩~国縫にある信号場。昭和19年、太平洋戦争に伴う輸送力強化の一環で設置された。太平洋戦争中は、陸軍の軍馬補充部があり、戦後も付近で砂鉄の採集が行われていて、仮乗降場として旅客営業が行われていた。昭和62年の国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承されるとともに、正式な駅へ昇格し、北豊津駅となった。しかし周囲には、民家は皆無で、一日乗降数が0人台が続き、2017年3月に旅客扱いを廃止、信号場に戻って現在も所在する。この当時は、単線から分岐する2線構造の信号場であったが、昭和45年に国縫方が複線化されたため、分岐型の信号場となった。

短めだが相対式ホームを持つ。駅名標には「Signal Station」の表記が見えるが、これは道内の信号場で見られる独自の表記である。国道5号と並行し、その向こうは噴火湾だが、駅前で工事中のため見ることができない。列車は函館発札幌行き「すずらん1号」、56系10連で運転され、函館~札幌は82系DC特急が主体だったが、まだまだ急行が活躍していた。

朝ドラで鉄道 地下鉄で空襲から逃げた ごちそうさん 128話

 大阪の都市伝説となっている大阪大空襲の時に地下鉄で心斎橋から梅田まで避難したという話がベースとなっている放送回である。保存されている地下鉄105形が主役でもある。

 印象に残っているシーンは地下鉄がトンネルの向うからヘッドライトを点けて駅にやってくるところである。子供の頃、電車を待っている時にまだかなと思ってトンネルの向うをのぞいた時に見た光景と似ていた。地下鉄というのは子供にとっては不思議な電車である。

 都市伝説になっている地下鉄で空襲から逃げたという話。白い巨塔、不毛地帯、大地の子などを執筆された山崎豊子さんの日記が発見された。その日記にいきさつが書かれてある。このことは日経新聞(2015年7月13日)記事に

 日記には、警戒警報や空襲警報がたびたび鳴る戦時下の日常が克明に記されている。
大阪大空襲があった3月13日から14日未明にかけて、山崎さんは焼夷(しょうい)弾
が投下される街を逃げる。「両側は火の海」となった御堂筋で煙に巻かれて窒息しそ
うになり、「むしやきかと観念」した後に「地下鉄に飛び込み命助かる」。

 この時の地下鉄が走っていたかわからないが地下鉄で助かったことには間違いないようだ。

 「信号場」を巡る   ②

最東端の信号場 東庶路信号場

では、北から南まで、旅の途中で撮った信号場を見ていただきます。駅と違って、原則、旅客の取り扱いを行なわないため、列車交換の合い間に窓から首を出して撮っただけですが、交換列車や周囲の光景が、時代を映しています。最東端駅の東根室の廃止により、晴れて根室が最東端駅になったことは耳に新しいが、調べてみると、信号場では、根室本線の東庶路信号場が今でも最東端の信号場のようだ。庶路~大楽毛にあり、釧路空港へは至近距離で、写真のようにすぐ国道も走っていて秘境感はないが、どこまでも続く釧路原野の真っただ中にある。昭和41年の開設と新しく、上下共用で一線スルー化され、82系「おおぞら」が爆音を立てて、高速通過して行く。待避線は二本あり3線構造になっている。特筆すべきは有効長で、長大な貨物列車に対応するため、有効長は700m以上あると言う。なお、根室本線は早くにCTC化され、昭和46年には無人化されている。その直前の撮影で、駅員が立つ風景は貴重でもある(昭和46年3月)。

2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その7)最終回

7月28日
最終日となりました。7月28日に旅行日程が入るように合わせにかかったところもあります。タイ国鉄では、年6回蒸気機関車牽引列車の特別運行を行っており、7月28日は、ワチラロンコーン国王陛下生誕日となっています。タイ政府観光庁によりますと、7月28日以外には、3月26日がタイ鉄道記念日、6月3日がスティダー王妃生誕日、8月12日がシリキッド王太后生誕日、10月23日がチュラロンコーン大王記念日、12月5日がプミポン前国王生誕日で蒸気機関車記念運行を行っています。時間は、いずれも下りは、観光901列車バンコクホワランポーン8時10分発、アユタヤ10時20分着、上りは、観光902列車アユタヤ16時40分発、バンコクホワランポーン18時50分着となります。

▲先頭は824号機 バンコクホワランポーン駅

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夏休み 日本縦断の旅 (0日目② 最北端の町を歩く)

この日宿泊するのは、駅から徒歩5分の所にあるユースホステル。部屋の窓からは、稚内港がよく見えました。荷物を置き、身軽になった後は周辺を観光します。まずは北防波堤ドームを見学。雑誌やYouTubeで何度も見ましたが、間近で見るとその迫力には驚かされます。

北防波堤ドーム
かつては、この下に稚内桟橋駅があり、高波から列車を守るために建造された

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その6)

7月27日後半
27日の午前中はサムセン駅での撮影です。かつてはバンコク行きは、ホワランポーン行きでしたので優等列車もほぼ全てサムセンで撮ることが出来たのですが、今は優等列車は、クルンテープアピワット中央駅発着となり、しかもこの高架駅は、列車が発車する直前に改札する方式なので、撮影は、乗る列車しかもホーム側でしか出来ず甚だ窮屈です。その点、ホワランポーン駅は、切符を持つ人持たない人関わらず自由に出入りでき、撮影もし放題でしたのでその落差は大きく、マレーシア方面へ向かう南線、チェンマイへ向かう北線などそれぞれどの辺りで撮るのか、優等列車撮影は工夫が必要です。

▲バンコクホワランポーン駅の構内

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その5)

7月27日前半
空が明るくなってきて目が覚めました。寝台車のベッドで朝を迎えるのは、懐かしくも得難い時間だと再認識させられました。平原のような田舎の景色を走っているので到着までにはまだまだ時間がありそうです。

▲朝の2等寝台

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その4)

7月26日後半

バスの発車時刻は結局わかりませんでしたが、もうこれしかありません。エアアジアAK822便で即決です。しかし14時半になっても飛行機は動きません。それどころか整備員が乗り込んできてゴソゴソしだす始末です。今日はとことんついてないなあ、と思いましたが、30分ほど遅れて何とか離陸しました。プーケットには20分ほど遅れての到着でした。外国語の案内は、英語以外には中国語とキリル文字でした。プーケット島は、東南アジア有数のリゾート地で、かつては日本からも直行便があり、多くの日本人が訪れていましたが、今や日本人は減って中国人やロシア人が増えているのでしょう。

とにもかくにも私には、リゾート地としてのプーケットは一切関係なく、スラターニーへ行くバスを探さねばなりません。しかしタクシーの運転手は、「空港からスラターニーへ行くバスはない。タクシーならバス停までは300バーツ(約1360円)でどうだ」と言います。それが高いか安いか判りませんが頼むしかありません。20分ほど走って小さなバス停で降りました。

▲スラターニーへ向かうバス停の切符売り場

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その3)

7月26日前半
今日はクアラルンプールから国境の町パダン・ブサールまで行き、タイ国鉄の夜行急行に乗り換えます。ほぼ鉄路乗車の一日になる予定です。クアラルンプールからバターワースまでは未乗区間なのでそれも楽しみです。ただ正確には、クアラルンプールからパダン・ブサールまで直達する列車は、バターワースを通らず短絡するようですので完乗とはならなさそうです。今日に乗るEP9274列車は奮発して一等車にしました。一等車には運用する鉄道事業者のサービスへの考え方というかレベルがよく判ると考えています。ですので時間やタイミング、そもそも営業していて乗れる機会があれば出来るだけ乗るようにしているつもりです。一つ先のクアラルンプール駅で駅撮りをしてから乗ろうかとも思いましたが、ここはやはり始発から乗るべきだろうと、中央駅から乗ることにします。まだ時間がありそうだったので、朝食を食べてホテルへ戻ってから近くを散歩しました。

▲KL中央駅 KTMコミューター(普通列車)の改札口

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その2)

7月25日
グマスから首都クアラルンプールまでは電車です。グマス8時12分発クアラルンプール10時45分着のEG9420列車です。今日はクアラルンプールで降りますが、この列車はタイ国境の町パダンブサール16時33分終着となり、長駆8時間半をかけて走破します。

▲EG9420列車、特急用のクラス93の車内。車幅は少しタイトか。

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その1)

これまで何度か東南アジアを訪問しましたが、マレーシアの首都クアラルンプールへは行ったことがありませんでした。マレーシアの西海岸線にも、29年前に東海岸線を走る夜行列車でワカバルからシンガポールまで乗った時にグマスからジョホールバル迄乗車した以外は、全く未知の線です。クアラルンプール周辺はどうなっているのか、今は電車列車ばかりになっているようですが、一度見ておきたいと思いました。そこで今回は、シンガポールからクアラルンプール、バターワース、パダン・ブサールを経由、タイの首都バンコクまで鉄路で一気通貫をめざすことにしました。

▲スタートは、シンガポール鉄板の観光スポットから

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朝ドラで鉄道 御免与駅の巻

 ドラマを見ていると鉄道が絡んだ場面がよく見る。最近は昔のことでもVFXで映像化できるのが面白い。
 「御免与駅」あれ!高知にこんな駅、あったっけ!鉄道地図で調べてみると「後免駅」はあるが「御免与駅」はない。どうもドラマのためにつくられた架空の駅であるようだ。しかし、こんな声が聞こえてきそうな。「ごめんよ。このドラマのために駅を創ったんよ」「悪かったやちゃ。」「ところで、この駅のベンチはあまり見かけん形やね。普通は長椅子のような形やけど、このベンチは花を飾る花瓶を置く台をぐるりと囲むようになっているね。」「九州の折尾駅が丸い柱をぐるりと囲むように円形のベンチだったが駅が改築された時に復元して新しい駅にも設置されているようだよ。」「ところで近鉄の宇治山田駅のベンチは四角い柱を囲むようになっているよ。」 

  「御免与」じっさいに駅がなくて...