北海道でまた廃止 根室線 富良野~新得の駅を訪ねる

3月31日限りで、JR根室線富良野~新得81.7kmの鉄道営業が終了しました。鉄道としての終了は富良野~東鹿越で、東鹿越~新得は台風被害で不通のまま代行バス輸送になっていましたが、バス代行も終了となりました。先ほどのNHKニュースでも報道がありましたが、北海道の鉄道廃止も、ここ数年、年中行事化していて、それほどの感慨はありません。新しい時刻表にも、数行「営業終了」とサラリと触れているだけ、災害による他の路線不通も小さく載っているだけで、これだけの不通区間があったのかと改めて驚きました。

富良野~新得は、最初に北海道を訪れた昭和40年代、狩勝峠の旧線は新線に移っていて、蒸機の力闘も、車窓からの大眺望も知りませんが、まだ石勝線が開業する前で、道央と釧路・根室を結ぶ幹線として機能していて、何度も列車で通ったものでした。ただ乗ったのは夜行列車ばかりで、深夜の1時、2時、列車で爆睡していて記憶も記録もありません。ここ10年ぐらい、何度か北海道へ行くようになって、やっと明るいうちに同区間に乗ることができました。東鹿越~新得のバス代行輸送については、以前のデジ青でも発表していますので、富良野~新得の廃止駅を中心に見てもらいます。もちろん芦別岳バックの原色キハ40走行など行く術もなく終わってしまい、単なる車内からの撮影です。

今回の廃止区間の始発となる富良野駅で発車を待つ、東鹿越行きの列車、キハ40の単行だが、車内は中国人旅行客も含めて、そこそこの乗客数だった(2018年2月)

 

富良野までは貨物もあってDF200も見られ、富良野線、根室線の分岐駅として列車の並びも見られた。4月からは、根室線は二つに分断され、滝川~富良野は、根室へ行けない根室線となる。

 

 

布部 (ぬのべ)

テレビドラマ「北の国から」の第一話のロケ地になったそうで、駅前には倉本聰の直筆の碑があるそうな。島式ホームで、緑の傾斜屋根が印象的な駅舎は新しそうに見えるが、開業以来のものと言う。一日平均乗客数2.2人(JR北海道調べ)

 

山部 (やまべ)

最近建て直されたログハウス風の駅舎が建ち、構内は対向式で交換可能。駅前は国道にも近く集落もあって乗車列車からも3人が下車した。煉瓦造りのランプ小屋があって、かつての駅の繁栄を伝えていた。晴れていれば、芦別岳が見えるそう。一日平均乗客数20.0人(JR北海道調べ)

下金山 (しもかなやま)

かつては交換可能駅だったが、いまは棒線駅に。周囲に人家はなく、駅名標も雪に埋まっていた。一日平均乗客数3.8人(JR北海道調べ)

 

 

 

金山 (かなやま)

ここもホームは雪に埋まっていた。対向式の長いホームがあって、かつて長編成の交換があったことを物語る。一日平均乗客数2.2人(JR北海道調べ)。以上2018年2月撮影

2019年2月に再度、根室線を訪れた時は、富良野からの列車が信号機の故障で運休になり、富良野から代行バス乗車となった。約一時間遅れで一般国道を走り、金山に到着、ここに東鹿越~新得の列車代行バスが到着、通常、東鹿越で乗り継ぎになるところ、金山で新得方面、富良野方面へ相互バス乗り換えとなった。

 

東鹿越 (ひがししかごえ)

列車、代行バスの乗り継ぎとなる東鹿越、元はと言えば、2017年度中の駅廃止が予定されていた。ところが2016年8月の台風で道床流失などの被害があり、以降、列車、代行バスの乗り継ぎ駅として、2024年まで生き延びることになった。一日平均乗客数45.8人(JR北海道調べ)。

幾寅 (いくとら)

「鉄道員(ぽっぽや)」のロケ駅で、駅名標も「幌舞駅」のままで、駅前に代行バスが発着し、待合室もバス待ち客に利用されている。駅舎には高倉健のサイン、衣装を展示し、駅前の保存DCとともに、観光資源になっている。また周辺は集落が多く、近くの南富良野高校や遠く富良野市内に通う高校生も多く、通学時間帯には、多くが代行バスに乗り込むと言う。一日平均乗客数59.0人(JR北海道調べ)。

落合 (おちあい)

2010年6月、まだ列車が走っていた時代に、ぶんしゅうさんとクルマで落合を訪れている。かつて狩勝越えの基地としても賑わった広い構内、長いホームも健在だった。

中央のトンネルに向かう線路が新得方面への根室線、トンネルの手前で左へ折れる側線があるが、これが昭和41年までの狩勝旧線の一部、駅周辺や近くの国道沿いには集落もあって、駅構内が生活通路として利用されていて、なんと、若い母子が現れたのには驚いた。

 

新得 (しんとく)

昭和56年の石勝線開業で、根室線との接続駅となった。二つの線は、上落合信号場で分岐していて、今回の廃止も正確には富良野~上落合(信)となる。右の待合室時刻表は、不通前の列車運転時代のもの。

 

イルミネーションで飾られた夜の新得駅。駅舎は昭和61年に改築され、みどりの窓口や駅そば店もあって、北海道の主要駅としての雰囲気を残している(2019年2月)。

 

 

 

 

 北海道でまた廃止 根室線 富良野~新得の駅を訪ねる」への11件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    北海道の鉄道廃止も、来るところまで来たという感じですね。今回初めて昭和40年代に夜行列車が走っていた幹線区間が対象となりました。
    この区間に最初に乗車したのは、1967年8月30日に昼行の上り「狩勝」に乗車した時で、当時は札幌からの基本編成に、富良野で旭川から富良野線経由の付属編成を併結・解結し釧路まで走っていました。一番思い出が残っているのは1970年9月30日に旭川から根室に移動した時ですが、富良野から釧路までは元「まりも」のヨンサントオで列車名が統合された「狩勝4号」に乗車しました。この列車には富良野の発車が深夜帯にもかかわらず、富良野線を通り旭川からの普通列車が上り下りとも接続していました。この頃は、旭川から帯広、釧路、根室への鉄道を利用した移動人口が多かったようですね。
    最後に富良野~新得間を乗車したのは2015年6月27日ですが、その時の山部の列車交換風景です。

    • 快速つくばね様
      北海道の鉄道地図も一段と寂しいものとなりました。昼間の山部駅の写真もありがとうございます。千鳥式ホームの構造もよく分かりました。深夜の富良野線の「狩勝4号」への接続、当時の時刻表を引っ張り出して確認しました。旭川23:04発の641Dは、富良野に0:20着、0:39に「狩勝4号」が富良野に到着して接続しています。北海道のローカル線で、珍しい0時過ぎの到着には、こんな理由があったのですね。「狩勝4号」となる前の「まりも」は全車指定の急行で、均一周遊券でも指定券が必要でした。なかなか乗る機会がなく、私は夜行での移動は、もっぱら普通列車の423レ、424レでした。

      • 総本家青信号特派員様
        返信ありがとうございます。狩勝峠を初めて知ったのは「鉄道ピクトリアル誌」の見開きに掲載された峠のカーブを通る「おおぞら」の写真を見た時でした。丁度その頃、二人の叔父が出張で京都から帯広まで「白鳥」-青函航路-「おおぞら」で往復出張し、鉄道ファンでも何でもないのですが狩勝峠の絶景のすばらしさを聞かされ、すぐに行きたいと思いましたが、高校生の身にはどうすることもできませんでした。
        初めて訪問できたのは新線に切り替わった1年後の1967年8月30日でしたので夢は叶いませんでした。1970年9月21日(30日は間違いでした)の「狩勝4号」の急行・指定席券を探し出しましたが、富良野発は0:48になっていましたので、9分停車だったのですね。この時は札幌出張だったのですが、会社に北海道の勉強をしてきますといって休暇を取り、道東地区の鉄道を乗り回りました。

  2. 総本家青信号特派員様
    以前に紹介したことがあると思いますが誰が撮っても同じような写真になる狩勝信号所-新内間の旧線の大カーブです。廃止される直前の1966年9月7日の撮影でメモによりますと帯広市平原荘ホステルに宿泊し帯広6時38分発狩勝8時25分着430D列車で現地入りしています。写真は本務機、後補機とも新得区のD51の3462列車です。時刻表を貼り付ければいいのですが、夜行急行の「まりも」、寝台付き424普通列車の他小樽築港区C57の釧路-小樽間ロングランの421列小樽行き、DC特急「おおとり」「おおぞら」、DC急行「十勝」「阿寒」「狩勝」等が狩勝峠を上っていました。勿論高倉健の映画も見ましたが、この辺りの駅名板や駅舎をあまり撮っておらず、その後の根室本線の思い出もあまりなく、石北本線の特急「オホーツク」や夜行の寝台急行「大雪」の利用の方が多かったと思います。C57ロングランは一度発表していますが、北海道やC57に興味のある人もあまりいないと思いますので割愛します。

    • 準特急様
      憧れの狩勝峠の写真、ありがとうございます。1966年9月に行かれているのですか、その頃の私と言えば、やっと一人で夜行日帰りで呉線へ行けた時です。親しくさせていただいている準特急さんは、もう連絡船で北海道へ渡り、ユースに泊まって、狩勝峠で撮っておられたとは‥、年代差を感じます。狩勝峠のC57は、たしか小樽~釧路、通し運転でしたね。450キロ近く、途中の給炭、給水はあったとは言え、蒸機の威力を感じます。

    • “たぶん”どころではない、正真正銘の狩勝峠ではないですか。準特急さんと同じ立ち位置だと思いますが、よくぞ行かれたものです。落合にD51到着の写真は、左へカーブしており、私の撮影の落合の構内と同じではないでしょうか。

  3. 当時の熊は昨今のクマと違い相手を見ていたのではないでしょうか。
    さて狩勝旧線に対する思いは小生も皆さまと同じですが、鉄道趣味活動の過程で「悔い」が残るものの一つです。皆さん同様ピク誌等で知って以来、その雄大な風景に憧れ、一度は行ってみたいと思ったものですが叶いませんでした。初通過はもちろん切替後の新線で、1969年2月に総本家さまも乗られた423レの寝台車スハネ30で爆睡中でした。半年後の8月の夏季狂化合宿では函館直通422レから雄大な景色を初めて堪能しました。更には1977年5月の新婚旅行時に「おおぞら」の食堂車でイカのホッポウ焼きを食しつつ雄大な風景を堪能しました。その後も撮影旅行で度々撮ったり通過したりしていますが、先日ここと接続していた本来の根室本線の一部である富良野~新得が廃止され、只今は大きな索莫感に駆られています。

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