西のC59・C62全記録  (14・最終回)

昭和45(1970)年9月 電化工事の完了した呉線へ最後の撮影 ③

ダラダラ続けて来た本テーマもやっと最終回、今回も同じような写真が続きますが“全記録”と銘打った以上、ご容赦いただき、先を急ぐことにします。前回(13)は、午前は小屋浦、昼は広島機関区で写し、そのあと、また列車に乗って呉線へ、晩は再び広島へ戻って夜間撮影。そして駅の待合室で寝て、翌日は一番列車に乗って、再び呉線・広島機関区と、昭和45年10月改正の呉線電化を前にして、最後の乗車・撮影を行いました。今から50年以上前、気力・体力も充実した時代ならではの行動力あふれる別れとなりました。

この日は広島駅の待合室に泊まり込むことにして、夜間、広島駅を発車して行く呉線の列車を写すことにした。C62 15の牽く「音戸2号」。

前記事の広島機関区での撮影を終えて、広島13:45発DC列車に乗って、初めて安浦に下車、風早寄りに歩いた地点で上り「安芸」をとらえた。C59 161の牽引。山影に囲まれた、雨の降りそうな雲の厚い天気で、結果はご覧の通り。

 

同地点で上り急行「吉備」。 ▲▲安浦から安登寄りに歩いたところでD51 458の牽く623レ安浦18:46発の列車に乗り、本日2回目の広島へ。待合室にリュックを置いて席を確保、カメラだけ持ってホームに入場し、呉線の夜行列車や本線のブルトレ発着をとらえる。広島22:41発の京都行き「音戸1号」、旧「ななうら」で、座席車ばかりの編成で、先頭はD51 818が立つ。続いて下関から到着したのが新大阪行き上り「音戸2号」、EF58に牽かれて23:16着、呉線経由のためC62 15に交代する。

 

14分停車のあと、23:30に発車する。このあと、糸崎で再びEF58に代わるから、呉線経由の優等列車は、ずいぶん面倒なことだ。

 

 

 

このあと、深夜の広島駅では、本線列車も含めて、翌朝まで続々と優等列車が発着する。魅力的な写材だが、二晩続きとなった広島駅待合室泊まり、2週間余りの九州旅行の疲れも蓄積して爆睡した。さすが深夜の広島駅、日常生活では接しない人種が周囲にたむろして、治安状況は極めて良くないが、それも気にならず寝入っていた。

開けて9月14日、広島5:13発の622レに乗って天応へ。小屋浦寄りに歩いて、次つぎ下って来る列車を撮る。まず新大阪発広島行き臨時「音戸51号」、万博が開催中のこの年に、大量増備された12系客車、冷房付きの最新編成だった。京都発広島行き「音戸2号」、こちらはD51 818が牽く旧型客車で、臨時急行とは格差がある。

D51 818の牽く921レ、D51 262の牽く923レと、D51ばかりが通過する。呉線電化後にC62は小樽築港区に転属する機もあり、走行距離の調整が加わった結果かもしれない。やっとC62 17の牽く925レをとらえる。続いて927レもC62の牽引、並行する国道を、学生たちや国鉄バス(?)も行く。最後はEF58 18+C62 23の“電蒸運転”の621レで朝のラッシュは終了、天応8:46発のDC列車で去り、また広島へ戻った。 ふたたびの広島機関区へ。C62 16がロッドを下ろして、最適の位置に停車していた。

ただ天気は相変わらず悪く、ついに雨が降ってきた。庫のなかで雨宿りしながら、外で雨に濡れるC6216を。

 

 

 

 

 

 

 

機関区の横を下関発新大阪行き「はと2号」が通過する。

急行「安芸」の牽引機C62 15が広島区に戻って来た。あとの整備は掛員に任せて、機関士、機関助士が、一仕事終えた安堵の表情で事務所へ戻って行った。

改めて「安芸」牽引のC62 15を鑑賞する。前日「安芸」を牽引したC59と比較もしてみる。

本線の未電化時代から大型蒸機で賑わって来た広島機関区、従来の広島第一機関区(広一)、広島第二機関区(広二)が組織変更で、昭和37年に広一は広島機関区、広二は広島運転所となった。蒸機は、まだ芸備線の出入りが残るものの、C59、C62と本線の未電化時代から連綿と続けられた広島機関区の大型蒸機の歴史が終わる。

▲▲機関区の職員だろうか、D51の前で、ずっとたたずんでいた。

 

 

最後はやはり「安芸」で締めたいと思い、仁方に下車した、安芸川尻寄りに歩いて、入り江沿いを走る、昔から知られた撮影地へ初めて訪れた。ここ二、三日、天気が良くなかったが、通過する頃には薄日も射してきた。おまけに前照灯も点灯、もちろん架線には囲まれてはいたものの、やっと最後にしてマシな「安芸」が撮れた感じで、呉線の撮影を締めくくった。

 西のC59・C62全記録  (14・最終回)」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    新大阪発広島行き臨時「音戸51号」を見せていただき有難うございます。日本万国博覧会(大阪万博)は、1970年3月15日(日曜日)から9月13日(日曜日)までの183日間開催されましたが、写されたのは9月14日ですから最終日に入場されたお客様を広島まで連れ帰った列車ですね。
    「西のC59・C62全記録(9)」のコメントで広島出張のことを投稿しましたが、帰路がはっきりしていなかったのですが、この写真を見て「急行券・指定席券」を探し出し明確になりました。広島で2泊し帰りは1970年8月28日の「音戸52号」に乗車したようです。万博輸送を念頭に導入された12系客車に初めて乗車しましたが、冷房、空気バネで乗り心地は当然改善されていましたが、電車急行とほとんど変わらず、蒸気機関車が牽引していることを忘れるほどでした。
    「西のC59・C62全記録」、長い間有難うございました。

    • 快速つくばね様
      お言葉を頂戴し、ありがとうございました。私もこの日が、万博閉幕の次の日だったとは、つくばねさんのコメントで初めて知りました。12系の「音戸52号」の急行・指定券も見せていただきました。万博輸送時の12系には縁がありませんでしたが、その後に乗った12系は、明るくて清潔で、夏には冷房も入って、近未来の客車だと思ったものでした。

  2. 総本家青信号特派員様
    14回にも及ぶ投稿、お疲れさまでした。何度も訪問されたのは、C59・C62という大型機の活躍に加え、風光明媚な沿線風景にも魅かれたのでしょうか。数多くの写真を拝見し、私も自分の目で見たかった思いが湧いてきます。ただ、呉線から蒸気が姿を消すのは早く、中学2年生の私が出かけるのは叶いませんでした。「もう少し早く生まれていたら」と思わないこともありませんが、こればかりは仕方のないこと。ある有名な方の著書に「もう半年早く訪問していたなら○○の動くところを見られたのに…」と書いてあり、思うことは同じだと納得した次第です。
    ところが、実はわたくし呉線蒸機の写真を数枚持っております。初めて一人で京都駅へC57を写しに行った昭和45年9月の初め、隣でカメラを構えていたお兄さんから声をかけられ、発車を待つ客車の中でしばらく話をしました。お兄さんは広島から京都へ撮影に来たそうで、呉線の写真を送ってあげるとおっしゃいます。住所を交換し、写真が届くの今か今かと待ったのも、懐かしい思い出です。もう、50年以上もの長い月日が過ぎました。
    広島のお兄さんが送ってくださった、小屋浦駅のC59 164を添付します。

    • 紫の1863さま
      写真展にもお越しいただき、その際にも、呉線のことを聞かせていただきました。ニイちゃんの小屋浦の写真も見せていただきました。小屋浦駅徒歩1分の構内で、私もよく撮りました。呉線は、ダラダラと14回も続けてきましたが、私自身、50年前のことは、記憶には、ほとんど残っていないことを改めて知りました。それをネガ一点一点を検索し、当時のメモや時刻表を読み解いて、行程をなんとか再現することができました。単にネガ・写真を所蔵しているだけでは、何も伝わらないことも分かりました。“デジ青”のように、記録・記憶を伝えていく媒体があるからこそです。これからも、ガンガン投稿していきますよ。

  3. 呉線が全通80周年を迎えた2015年、いろいろな催事が行われました。三原駅で配布された、記念ポストカードの配布もそのひとつで、JRから依頼を受けられた西村さんが企画を担われて、私やtsurukameさん、西村さんの写真を、ポストカードにしていただきました。さらに、三原駅のコンコースで、ポストカード素材を中心に、呉線写真展まで開催していただきました。私も広電貸切電車の乗車後に見学することができました。お世話になった西村さんには改めて御礼申し上げます。
    https://drfc-ob.com/wp/archives/65605

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