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【1504】懲りずにまたクイズ
 湯口 徹  - 08/8/3(日) 9:47 -
  
次から次と、快刀乱麻のお答えが、それも間髪を入れずに出て、72歳目前のヒマ老人は機嫌すこぶる麗しく、気分もハイ気味になり、すぐ調子に乗ってなどの陰口は一切耳に入らず、懲りることなくまたクイズを。

撮影は1954年9月5日、宮原客車区でのオミ46で、種車がオハ35とオハフ33であるくらいは誰でも分かる。窓には金網が張ってあり、あたかも投石・火炎ビン除けの警察機動隊車両か、それを真似た右翼の街宣車のようだ。

これは何のための金網か。そもそも何のための車両なのか。記号の「ミ」とはは何か。まさか水質不良地区で蒸気機関車のために水を運んだ「水タンク車」ではあるまい。

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【1503】懐かしの阪和線 V(直行)
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/8/2(土) 19:25 -
  
本題に入る前に、湯口先輩の「またまたクイズ」をデカンショまつり号さんが見事に正解を回答された。湯口先輩の仰せの通り、宇部区時代に運転台を取り付けた時点で、本来ならばクハ19となるべき処、「サ」を「ク」に書き直しただけで使用し、書類上はサハ25のままで、クハ代用車(クサハ)となっていたのではないか思われる。ちなみに明石区への転属は昭和26年12月24日付で、宇部区に東京から17m鋼製車が転入してきたため余剰となり、救援車として入ったものである。

同様の例は、鶴見臨港鉄道買収のサモハ(サハ代用のモハ)211で、昭和18年7月1日、鉄道省に買収、昭和23年鶴見線昇圧により身延線に転属(この時点での車号はサハ211)昭和26年、飯田線伊那松島区に転属、昭和27年6月5日HLの制御器を取り付けクハ化されるも書類上はサハ211のまま(現車の標記はクハ)で、昭和28年6月の改番で正式にクハ5500となった。

阪和線に、昭和33年10月から昭和43年9月まで「直行」という列車種別が存在していたことをご存知で、実際に乗られた方は「前期高齢者予備軍」以上の方であろう。

昭和33年9月までの列車種別は「特急」「急行」「準急」「普通」の4本立てであった。「特急」の停車駅は、鳳、和泉砂川、紀伊中ノ島、「急行」は、金岡、鳳、和泉府中、久米田、東岸和田、東貝塚、熊取、和泉砂川以遠各駅、「準急」は、金岡、鳳以遠各駅であった。

33年10月のダイヤ改正直前の運転本数は、特急は朝夕ラッシュ時に7往復、急行は昼間30分間隔、準急は朝夕ラッシュ時の運転であった。ダイヤ改正で「特急」を「快速」に改称して昼間1時間間隔として停車駅は従来通り、「急行」と「準急」を統合して「直行」に改称し、昼間30分間隔とした。停車駅は、金岡、鳳、和泉府中以遠各駅、旧準急の時間帯の列車は従来通り鳳以遠各駅とした。昭和43年10月(ヨンサントウ)のダイヤ改正で区間快速に改称されて消えてしまったが、阪和線らしい種別であった。

日常的な利用者以外の人にとっては、何とも不思議な種別で、各駅停車東和歌山行や東和歌山まで行かない「直行」も存在したので、一寸わかりにくかったことも事実であった。

「快速」「直行」の使用車両は基本的にはクハ76+モハ70+モハ70+クハ76の4連であったが、阪和形、一般形及びその混結が使用されることもあった。

1.クハ25他阪和形4連               42年5月28日 鳳

2.クモハ73080+サハ57003+モハ72+クハ55  同上   長居
東京から転属したばかりのクモハ73他4連が直行運用に入ったところ。

3.クハ76+モハ70+モハ70+クハ76    43年3月24日 天王寺
この「直行札」の期間は短かった。

4.クハ76+モハ70+モハ70+クハ76  47年8月6日 山中渓〜紀伊

5.クモハ60004+サハ78010+サハ78+クモハ60     同上

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【1502】Re:またまたクイズ
 デカンショまつり号 E-MAIL  - 08/8/2(土) 0:09 -
  
写真の車両は、西明石で撮影されたということですから、当時明石電車区の救援車として配置されていたクハ25038だと考えられます。この車は、大正9年汽車会社で33700形のサハ33708として製造され、昭和3年に行われた称号改正でサハ25038となり、昭和24年に制御車となる改造をされましたが、書類上は、サハのままでした。何故か側面の車番は、クハ25038と記入されていました。写真が撮影された翌年の昭和28年に晴れて救援車化され、9310形のサエ9111となり、昭和33年に天寿を全うしたようです。
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【1501】Re:懐かしの阪和線 U
 デカンショまつり号 E-MAIL  - 08/8/1(金) 23:49 -
  
▼893-2さん:
懐かしい飯田線の写真ありがとうございます。
一緒に何度も飯田線に通ったことが昨日のように思い出されます。
あれから四半世紀。旧型国電を駆逐した119系もそろそろ引退ですか・・・・
国鉄型がまた一つ鬼籍入りですね。

諸先輩や893-2さんがきちんと写真を整理されるとともに、その記録をしっかりとられていることに脱帽です。

小生は、写真を撮ることは撮るのですが、整理が下手で・・・・・
その極意をご教授いただければ・・・・
ところで、893-2さんの5枚目写真は、飯田線下平駅です。ともに隣接した駅で駅間は、なんと1キロですが、下平駅は、単線式。山吹駅は、相対式で交換可能(今はどうなっているかわかりませんが・・・少なくともその当時は・・・・)ですので、写真は、下平駅ということになります。

これからも懐かしい写真期待しています。
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【1500】またまたクイズ
 湯口 徹  - 08/8/1(金) 10:41 -
  
山科クイズを3件出したら、即時出題者もたじろぐほど明確正確な回答がなされ、嬉しいやら、いささかがっくり?するやら。

そこで懲りずに山科から外れて今回は西明石へ。撮影は1952年9月23日とネガカバーに記入があるので、拙老芳紀16歳の誕生日である。

木製制式国電である。ナンバーは憶えていたのに、綺麗に忘れてしまった。ともかくクハ25である。ちょっと待て、25はサハだろ、クハなら19だろうに、とおっしゃていただけると、出題老人がにんまりできるのである。

これは間違いなくサハ25なのだが、片側に運転室が設けられ、ヘッドライトがあり、ウインドワイパーもある。だから記号はクハなのだが、番号は250××のままなのだ。これが今回の出題である。この電車を説明せよ。

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【1499】祝!70000ヒット
 893-2  - 08/8/1(金) 1:51 -
  
先日、7月27日の14:00過ぎに何気なくこのHPを開いたところ
70000ヒットの数字が目に飛び込んできました。
すぐさま写真に納めましたので、ここに公開します。
最近カウントの上がり方が早いですね。

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【IMG_7501.jpg : 227.3KB】
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【1498】Re:懐かしの阪和線 U
 893-2  - 08/8/1(金) 1:46 -
  
先輩方からの過分のお褒めを頂き恐縮の極みです。
でも煽てには弱いのでまた投稿します。
湯口先輩の【1487】と【1489】もすごいの一言ですがこの【1495】
の長居駅の写真にはびっくりしました。
何を隠そうこの駅こそ私が生まれてから25年住んだ家の最寄り駅なのです。
阪和線は天王寺を出てから初めての退避駅が
ここ長居で地下鉄御堂筋線の長居駅とも近く乗換駅として案内していました。
2枚目の右の方にある「徳永外科」は私が小学2年生のときに鉄棒から
滑り落ちて左肩を骨折したときに診てもらった医者で石膏のギプスをはめられ
完治したときにその石膏のギプスを電動ノコギリで目の前で切られたときは
体が切られるかと思いいまだに鮮烈に記憶に残っております。
今では長居駅は高架になり面影はありませんがつい数年前まではこの雰囲気で
残っておりました。小学生の頃、放浪少年だった私は長居駅で子供10円の
天王寺までの切符を買い天王寺経由で大阪まで出て新快速で京都や姫路まで
行きそのまま折り返して天王寺で降りて、また10円で長居まで戻ってくるを
繰り返していました。残念ながら長居駅で写真を撮ったことはありませんし
阪和社型は物心ついたときにはすでに消滅しており(昭和42年にはまだ
幼稚園にもいっていない子供でした)かろうじて旧国末期に間に合った
というところです。鉄道ファンの1975年11月175号に阪和線特集がなされ私が
所有する数少ない鉄道雑誌のひとつですがこれにより、流電やED38、
阪和社型などを知りました。
【1489】の写真の阪和社型はモハ20を名乗っていますが
これは先日、【1468】で湯口先輩が写真を出していたこだま型が名乗って
いた形式をその当時まで日本で破られなかった評定速度81.2km(だったと
思います、間違いでしたらすいません)で天王寺-和歌山を走破していた
旧モヨ100にその番号を譲ったと言う話らしいです。
また、阪和の社型は他の買収国電と異なり買収当時の国鉄の車輌より
スペックが優れていたこと、まとまった両数があったこと(70数両)
により、そのまま国鉄車輌に編入された経緯があるとも聞きました。
地元の鉄道がそんなすばらしいものだったんだと子供心に嬉しかった
ものです。
長じて大学生になり飯田線の旧国末期に立ち会えたのは何か因縁が
あったのかもしれません。ちなみに秩父鉄道のED38と弘南電鉄に
あったモヨ100の残党には会いに行ったのですが、走行写真を撮ることに
こだわってしまい、結局写真が残っていません。
先日、中央西線のロクヨンを撮影に行ったときに大桑あたりで空木岳を
バックに写真を撮りながら山向こうは飯田線やなと思い起こし藤本先輩
と同じく旧国を駆逐した119系(でしたっけ)を撮影に行こうかなとか
考えてしまいました。

写真は1枚目は1983年5月29日の本長篠駅クモハ53007
2枚目は1983年8月20日のさよならゲタ電クモハ53008
3枚目は翌日1983年8月21日に乗車したさよならゲタ電「デカンショ祭り号」氏
と乗車。懐かしいです。(前日は快晴だったのですが涙雨?)クモハ53008
4枚目は1975年11月3日の鳳電車区
5枚目は1983年3月16日飯田線下平もしくは山吹駅

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【1497】Re:北京〜天津の高速鉄道試運転
 中国特派員便り  - 08/7/31(木) 7:16 -
  
投稿内容で、”関本ジュニア”と、書き込みましたが、”関口知宏”さんの間違いです。ここに訂正させていただきます。
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【1496】北京〜天津の高速鉄道試運転
 中国特派員便り  - 08/7/31(木) 0:25 -
  
北京駅からの続編です。
約50分遅れで、CRH2のD545列車は発車しました。しかし、いつもと違っての30〜50km/h程度の徐行走行です。オリンピックに向けて建築中の北京南駅周辺では、最徐行でした。

反対側の席でしたが、見るとCRH3と、CRH2-300が4編成止まっていました。試運転が順調に開始されている事を確認できました。明日からの撮影を期待して、ようなく安心して天津まで眠れました。

天津駅は、北京南駅同様に急ピッチでの工事中でした。やはり最徐行での走行です。ここでも、CRH3と、CRH2-300が4編成止まっていました。

天津臨時駅にも北京駅同様に最徐行が続き、回復運転なくさらに遅れての到着でした。改札口を出ると、タクシーの客引きが群がってきます。

前の天津駅でも同様でしたが、メーターを倒さずの料金交渉が全てです。まともなタクシーは1台もいません。路線バスもありませんので、ここは諦めざるをえません。常宿のホテルまで、30元(480日本円)で、交渉成立しました。

普通にメーターどおりだと20数元ですので、まあまあの料金で、ぼったくりでもありません。それよりも重いスーツケースは、持ってくれますので、助かります。チップ程度の課金と割り切りました。

中国の鉄道駅や空港では、こんな事は普通にある事です。日本のタクシーと比べて高額の料金でもありません。初めて行かれる方は、諦めて荷物を持ってくれる程度のサービス料金と思って下さい。

ただ、市内から駅や空港までは、メーターを倒して、歓迎の乗車となります。長距離は、運転手の望むところです。時には、どこかの官庁同様に、お茶を買ってくれたり、たばこを勧めたりの大サービスを受ける事も珍しくありません。

必ず、次の日はどこへ行くのかと聞いてきます。1日チャーターしても、200〜400元と、超格安にしてくれることもあります。チベット問題や、毒入り餃子事件で、悪印象が強くなっている中国ですが、1対1になった時の中国人は、むしろ親切で日本人には、忘れて去られた優しさすらあります。

私から言わせれば、関本ジュニアが体験した、中国鉄道の旅に巡り合った人々が、本当の大地の人々です。誇張された悪い部分だけの報道だけで判断せずに、もっともっと中国に行かれて、本当の事を自ら感じて欲しいと思っております。きっと、忘れていた事を感じさせてくれます。私は、そんな大地が大好きです。

話を戻して、8月1日開業が決まっている北京〜天津間の高速鉄道ですが、規制や監視の厳しい北京での撮影は諦めて、天津駅付近にしました。

天津駅を発車すると、直ぐに高架軌道線が続いて、撮影は不可能です。そもそも、どこを走行しているのか地図さえありません。タクシーをチャータしようとしましたが、運転手もどこを走っているのか行った事がないとの返事です。

仕方ありません、取り合えず工事中の天津駅に向かい下車して、そこからは歩いて撮影ポイントを探しました。

駅全体を見渡せるマンションを見つけました。守衛に日本からわざわざ取材に来たと頼みましたが、屋上に上がるのは禁止している。公安に見つかったら私も罰せられると、了解がもらえません。

無茶を承知で工事現場に入り、線路際での撮影を試みました。丁度、昼休みで監視員も不在です。CRHは、5分おきでの試運転がされていました。

決死の思いで撮影したのが下記の写真です。しかし、駅方面から公安がやってきて、撮影禁止を告げられました。やむなく、撮影を諦めましたが、貴重な数コマは撮れました。

情報では、シーメンス社製のCRH3と、はやて改造型のCRH2-300が合わせて10編成運用に着くそうです。ただ、CRH2-300は6編成が確認できていますので、5:5なのか6:4なのかは不明です。

CRH2とCRH2-300との外観上の違いは、パンタの風切り板がついている事と、連結幌が密閉型に変更されている点、そして車両間に蛇行防止装置が新設置されているかです。

出力は、在来型4M4Tから6M2Tに増強されています。
ドイツ型が良いのか、日本型が良いのか、試される場です。
8月1日には、日本でも開通が報道されるでしょう。

直ぐにでも初乗車をしてみたい私ですが、業務多忙を極め、訪中できるのは、オリンピックが終わってから、早くても9月中旬になりそうです。誰か行かれた方は、ご一報を下さい。

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【1495】懐かしの阪和線 U
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/7/30(水) 23:29 -
  
湯口先輩より【1487】と【1489】の2回に亘って公開された半世紀前の阪和形の貴重な画像を拝見して感激している。団塊世代は「滑り込みセーフ」で、現役時代の昭和42年、阪和形廃車間際に鳳電車区の見学会を開催した。

【1487】の画像から簡単に説明すると、1番目と2番目はクタ7000形で、南海と合併後の昭和16年から18年にかけて同系のモタ3000形、クタ3000形と一緒に20両作られた。発注は阪和電鉄時代に行われており、戦時中にも拘らず、全鋼製の優美な車体であったが、モタ3000形は7両予定の処、電装できたのは4両で、残り3両は未電装のままクタ3000形となった。

1番目のクタ7005は昭和28年の改番でクハ6254、昭和34年の改番でクハ25105となり、昭和42年7月31日付で廃車となった。

2番目のクタ7007は昭和28年の改番でクハ6256、昭和34年の改番でクハ25107となり、昭和41年2月12日付で廃車となった。

3番目は、羽衣支線の運用に入った特急塗装のモハ43040で、何を隠そう飯田線で最も人気が高かった「クモハ53008」の前身である。余談であるが、飯田線では偶数向きのモハは4両編成の場合中間に入ることが多く、何度かの挑戦でやっと先頭で撮れたが、旧形末期の頃はよく先頭に出ていた。前の車両は車号の特定はできないがモハ40の001〜004・013のいずれかで、後にクモハ61001〜005となった車である。もしかすると、この車も53008と一緒に飯田線で活躍していたかも知れない。

4番目のED203は、身延線の前身、富士身延鉄道の買収機で昭和2年川崎造船所製、200〜204の5両作られ、200は昭和16年に三信鉄道に売却され、同鉄道のデキ501となった。昭和24年にED201、203〜205の4両が阪和線に転属、主に貨物列車用として昭和34年まで使用された。

【1489】は6×6フィルムで撮影されているため、非常に鮮明な仕上がりで、K.H.生さん同様ため息が出るほど素晴らしい。まず1番上のモハ2228は、昭和4年モタ300形モタ321として作られた車で、昭和28年の改番で写真の車号に、昭和34年の改番でモハ20026となり、昭和43年3月28日付けで廃車となった。モタ300形は、クタ750形、荷物室付のクテ700形と共に昭和4年から12年にかけて48両作られ阪和電鉄の主力として活躍した。

2番目のモハ2252は昭和17年モタ3000形モタ3003として作られ、昭和28年の改番で写真の車号に、昭和34年の改番でモハ20102となり、昭和42年7月29日付けで廃車となった。

3番目のクハ6212は南海合併後の昭和17年にクタ600形クタ603として作られ、昭和28年の改番で写真の車号に、昭和34年の改番でクハ25202となり、昭和42年5月23日付けで廃車となった。スタイルは全くの南海タイプで、写真でもお判りの通り、前面窓上にベンチレーターを装備していた。昭和32年の更新修繕時にラッシュ対策として、中央扉を増設し3扉化された。

4番目のクハ6259は、昭和18年にクタ7000形クタ7010として作られ、昭和28年の改番で写真の車号に、昭和34年の改番でクハ25109となり、昭和42年5月23日付けで廃車となった。

5番目のED384はロコ1000形の最終増備機ロコ1004として南海合併後発注されたが、完成は昭和19年6月で既に国鉄買収後あった。ロコ1000形は昭和5年に1001と1002が、翌6年に1003が作られ、昭和27年にED381〜4となった。昭和35年に廃車となったが、ED381と3は秩父鉄道に、ED382は大井川鉄道に譲渡、昭和42年に秩父鉄道に再譲渡された。秩父鉄道では小型機と共通運用で使用されていたが、昭和63年までに廃車となり、ED381が三峰口駅構内に併設された秩父鉄道車両公園に展示保存されている。但し状態は雨曝しのため良いとは言えない。写真のED384は廃車後も売却待ちで鷹取工場に保管されていたが結局解体された。

阪和電鉄の電機は、昭和26年近江鉄道に譲渡されたロコ1101が廃車後も機器扱いで車庫内の入替用として残り、彦根の近江鉄道ミュージアムに展示されているのでご覧になられた方も多いと思う。

【1487】で湯口先輩が疑問を呈されている昭和27年時点での国鉄形と社形の併結の件であるが、「吹田工場80年史」には阪和形の密連化は昭和29年12月15日から30年3月31日にかけて実施されたと書かれている。但し下記の9両は国鉄形と併結のためと片町線で使用のため、例外的に密連に取り替えていた。
(1)国鉄形との併結のため(密連に取替日)
@クヨ502 (昭和25年3月27日)→クハ6201→クハ25051
Aクヨ503 (昭和25年5月25日)→クハ6202→クハ25052
Bクヨ507 (昭和27年6月23日)→クハ6206→クハ25056
Cクタ605 (昭和25年1月31日)→クハ6214→クハ25204
Dクタ3007(昭和24年5月6日) →クハ6242→クハ25115
流電と半流(合の子)の中間に連結されていたサロハ66(実際にはサハとして使用)が飯田線に、サハ48が横須賀線に転属したためその代替及び淀川区から来たモハ40と連結するために密連化した。

(2)片町線で使用のため
@クタ7003(昭和24年5月10日)→クハ6252→クハ25103
Aクタ752 (昭和27年5月9日) →クハ6231→クハ25005
Bクタ7009(昭和24年2月17日)→クハ6258→クハ25102
Cクタ7011(昭和24年12月3日)→クハ6242→クハ25110
転出したモハ40の代替に入線し、従来の車両と連結のため密連化した。

モハについては昭和26年頃から自動ブレーキのU自在弁のA動作弁化、マスコンの東洋電機ES-93-A等から省制式MC1型化、制御器の東洋電機電動カム軸式ES-504-A・513-Aから鉄道省電動カム軸式CS10・10A化、パンタグラフの取替等が実施され、密連化後は国鉄形との併結が可能になり、運用効率が大幅に向上した。

我々の世代が撮影していた頃は、国鉄形との併結は日常的に行われていたが、関西以外の国電ファンは、阪和形と国鉄形は完全に別運用と思っていた人が多かったようだ。

今回は国鉄形と併結で使用中の写真を紹介する。

撮影場所は、1〜4.昭和42年5月28日 長居駅   5.鳳電車区
1.2.クモハ20002+クハ25+クモハ60+クハ25004
3.クモハ60+クハ25+クモハ20+クハ25105
4.クモハ51073+クハ25101+クモハ60089+クハ25112
5.クモハ20101+サハ78162

余談であるがクモハ51073は旧形国電でもトップクラスの特異な車両で、別の機会に改めて解説する。また、密連に取替日は「関西国電50年」、車号の変遷と廃車日は「旧型国電車両台帳」を参考にした。

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【クモハ20002.jpg : 97.6KB】

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【クハ25004B.jpg : 88.7KB】

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【クハ25105B.jpg : 93.7KB】

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【クモハ51073.jpg : 119.6KB】

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【1494】作並機関区へ
 乙訓の老人  - 08/7/30(水) 16:22 -
  
小学校の時にOゲージをやったお蔭で直流と交流の違いはそれなりに理解していたが、交流モータが鉄道向きでないとの紹介がピク誌で紹介された時、なさけないかな理由がはっきり分からなかった。敦賀で見た交流電車のモータが直、交どちらかも知らないまま、仙山線では交流モータにトルコン付きと遊星歯車付きの電車が試運転をしていると知り、どんなものか実地見聞してやれとなった。
1959年秋の東北旅行の行程では作並下車を組み込んだ。
9月16日、山形8:27発316レは9600牽引で、山寺ではED143に付け替えられた。芭蕉の句をおさらいする間なくトンネルへ、直ぐにガタンとなり停車である。しばらくして貨物列車が通過していった。トンネルに入るまでの急勾配で、行き違い地点を避けたためであろう。作並に到着するやED4521に交代となる。最新形の電関である。これの発車を見送り機関区事務室へ顔を出した。
区長は京都からたず訪ねて来たと言ったら大喜びで、ゆっくりしていけと案内役をかって出てくれた。まず見せられたのが廃車となったGEのメーカープレート。区宝にするのだと言って磨き上げられたものを取り出した。ついで教習中の教場へ連れて行き、1年後の福島電化の教育はここでやっていると胸を張る。こちらは早く電車をみせてほしいのだが、そうはいかない。やっと庫外のED4511、ED1727を撮らせてもらった。ED451は山を降りている、つまり仙台にいると。ED1728は山寺だとのこと。つまりトンネルで交換した貨物列車の牽引機であったわけ。ED14が4両揃っているとおもっていたら、1,2号機は廃車となりメーカープレートだけ保管しているとのこと。その代替機が変ED17の2両だった。ED441は調子が悪いのでメーカーへ(日立らしい)送られているとのこと。
やっと庫の扉を開け交流電車とご対面となった。こちらは敦賀と違ってクモハ11系の改造車である。トルコン付きのほうが留置されていた。「力不足で山登りには不向きだ。」「遊星歯車の方は?」「これも調子が悪いから郡山行きだ。これ以外に直流モータ付きのクモハ73+買収国電(元伊奈電)が2組あるが、これは原ノ町に配属されているから、ここにはいない。調子は良いらしいよ。」
昼飯を食っていけと言われたが、仙台市電が気になり11:43発318レで山の温泉駅を後にした。仙台へは12:29着。この日は快晴でわが世の春だった。

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【316レ到着.JPG : 182.2KB】

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【316レ発車.JPG : 168.9KB】

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【1493】おじん2人ヨーロッパ軽便 その22-8
 湯口 徹  - 08/7/30(水) 10:17 -
  
IL TRENINO VERDE サルディーニャ島鉄道「緑の列車」ボサとアルゲーロ

毎度ながら前後して申し訳ないが、マコメール(中央右)を中心とした地形を説明しておく。画面をクリック拡大してご覧あれ。

マコメールを東北に迂回して上下に伸びる赤い線は高規格の高速道路131号線。それに東から接す129号線は前回まで記したヌオロからの、若干規格が落ちる自動車専用道路だが、131号との接続後黄色(普通の道路)になり、マコメールの町に達し、西へ抜ける。

小さな赤丸に記された数字が海抜で、マコメールの入口が534m。高速131号のマコメール南方インターチェンジが394m、北へ行くほど高くなるが684mが峠になる。標準軌間の国鉄線がマコメール手前で大きく迂回し高度を稼いでいるのが分かろう。

マコメールを抜けた129号線は西海岸のボサへ向かい、この間950mmの「緑の列車」線が結構曲がって高度を下げ続けるが、海岸近くになってただ事でない高度差になる。地図では実線から破線(運休中)になるが、我々が訪ねた時点では運行していなかった。パンフレット(幸い英文)には運賃だけが記載され、マコメールから片道8.5ユーロ、往復11ユーロと、完全に観光値段である。

我々は車で通っただけで、道路も当然狭く村落を縫って曲がり続け、景色を見ていると危険だから程ほどにせにゃならんが、よくもこんな地形にいかに軽便とはいえ鉄道を敷く気になったものである。この線を蒸機が上り、下ったのだ。

やっと下り立ったボサは川を挟んで両側に展開するリゾート地で、終点の手前のボサ・マリーナ駅(写真を撮る気もしなかった)から終点ボサまでの線路は撤去されている。そのボサに行ってみたら、駅舎と車両が立ち腐れていた。木製のボギー客車は片側通路のコンパートメントで、どうやら優等車らしく、座席は見る影もないがかつては絹張のようだった。

結局ここでは写真にならず、アルゲーロへ。海岸線沿いの道路が最短距離だが地図に<やその二重印が何箇所もあり、これは道路勾配が4〜7%、7〜12%を示す。このあたりメモをさぼって記憶が乏しい。

アルゲーロの旧市内で宿を探した一件は前に記した。950mm軌間「緑の列車」が大都市サッサリから伸びた終点駅は、町をかなり北に外れた、実に味気ないところにあって、写真にならないので2駅(距離は相当ある)離れたオルメダまで行く。乗降は結構多い。独特の信号用ブラケットが我々には珍しい。

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【マコメール地図.jpg : 343.8KB】

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【1492】阪和の車両たち
 K.H.生  - 08/7/30(水) 2:54 -
  
もう半世紀どころか昭和の初期は80年近い昔の記録に
なってしまった。
いまや立派なアーカイブ(この掲示板の記事含めて)である。

優美ですな。ノーシルノーヘッダで窓上縁部にカーブがついて。
伊勢電の231あたりと双璧。1067mm高速区間でこの時代の電車の
最高傑作のひとつと言えるでしょう。

大鉄のデイ(6600)や南海の本線用の電車と比較しても
この2形式の方が上かと思えます。(モヨ100含めて)
阪和という私鉄のこと、車両の鮮明な写真はあまり見たことが
なく、今回の湯口兄の写真にはため息が出ました。

紀州路の鉄道は1が南海、2といえるのか阪和線については
光が当たらず、戦前は紀勢東線は省線離れ小島の異端児で建設が
進められました。
脚光を浴びたのは全通後、1960年代に特急「くろしお」が走り
出してからでしょう。

そういう意味で「私鉄線時代−阪和」についてきちんとした検証と
今の時代に正確な歴史知識を教え継ぎたい。
僕が学校の先生ならせめて沿線の子供らにそういう教育、して
あげたいなあ。
何しろ戦前に阪和間45分だった(そうな)のである。

鳳に1台くらい保存車両を!
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【1491】北京地鉄 北京駅停車せず!
 中国特派員便り  - 08/7/30(水) 0:56 -
  
東直門に着いた後、地上に上がってみました。出口は1カ所です。周辺の目印でも見つけておかないと戻れません。東直門駅は、2号環状線と13号線の乗換のターミナルですが、誘導案内板が少なく、鉄ちゃんすら分かりにくい構造です。

余程、駅を知っていないと、乗継には苦慮する事、間違いなしです。地方から来た中国人にも同様と思われます。相当の混乱が起きるのは必至でしょう。東西南北すら不明ですので、目の前にある2号線の地下入口から、再度、地鉄駅に戻りました。

ご存じのように、北京の道路は、急増する車で慢性的な渋滞状況となり、バスも定時運行が不可能となりました。そのために北京政府は、地鉄利用を促すために、今までの3元(約48日本円)以上の区間制運賃から、全線2元(約32日本円)の均一運賃に値下げしました。

思惑通り地鉄への利用客シフトは成功しましたが、予測以上の乗客殺到で、ラッシュ時はホームへの入場制限となりました。電車も足りず、新車の大量投入が行われています。

乗るのも大変になったなあと思っていると、北京駅手前の建国門駅に到着すると、どっと乗客が降りてしまいました。普段はこんなに下車客が多い駅ではありません。疑問は、現実となりました。

北京駅で降りる準備をしていると、通過です。“えっ、どうして?”
梅田駅、三宮駅、京都駅に止まらない地鉄なんて聞いた事ありません。考えていても始まりません。路面電車が復活した前門を目指しました。

前門駅は、天安門広場前、正面に位置します。昔は、この前の道が門前町のような繁華街でした。北京ダックで有名な全衆徳本店や、初めてシュウマイを発売した店もあり、北京に行った際は必ず訪れる所です。

一旦更地にして、以前のおもむき復元の大改造が行われていましたが、残念ながら、まだ未完成でした。トタン囲いの隙間から覗いてみると、2両の路面電車がいました。案の定バッテリー車でしたが、走り出したら是非に乗ってみたいと思いました。

ここでニュース!
かって、日本が領土化した北京の紫禁城前に北京駅を建設しました。戦後、切符売場や百貨店として利用されてきましたが、今回見ると鉄道博物館のサインが新たにかけられていました。まだ、未開業ですので、どんな中身になるかは分かりませんが、ここも行って見たい所です。

前門からは、タクシーで、北京駅に行きましたら、写真のように地鉄入口はシャッターが下ろされ、6月10日から工事のため閉鎖していますとの表示がありました。しかし、開通の予定日は未掲載です。

15:00、北京駅の天津行きの和諧号切符売場に行きますと、17:17のD545しか切符がありません。1等車切符を購入後、8月1日改正の時刻表を探し求めましたが、やっぱりありません。日本と違い中国では、改正当日以降でないと新しい時刻表は、販売されません。

日本なら、空き時間を利用して、ホームでの発車到着の列車を撮影できますが、約10〜15分前でないと、ホームには入れません。
駅内のレストランに入り、ビールを注文して、2時間を待つことにしました。ビールも黙っていれば、冷たいビールではなく常温ビールが出てきます。必ず、“凍ったビール”と、中国語で言わないと、冷たいビールは出てきません。

20分前にホームへ降りる改札口に行きましたが、発車時刻の電光表示はなく、周りの人に聞きますと、D545の切符を見せて、まだ改札を待っているとの返事です。発車時刻になっても何のアナウンスもありません。

隙間から、ホームの電光表示を見ますと、折り返すCRH到着時刻が17:50と表示されています。遅れているのがようやく分かりました。

狭くて暑い跨戦橋での待合です。乗客の多くは座り込んで、諦め顔でただ待ちます。日本なら、駅員にくってかかるところですが、ここは大地の国です。おおらかなのか、誰も問題にしません。

17;55、ようやく到着です。通常は、乗客が降りてからの改札開始ですが、今日は同時でした。ホームは大混乱でした。
注目の天津〜北京間の新幹線は、次回掲載します。

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【DSC_0449.jpg : 240.0KB】

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【1490】北京空港線 世界最速リニア開通
 中国特派員便り  - 08/7/28(月) 1:05 -
  
7月19日、北京空港にイギリス人設計により、新しく建設された世界一の面積を誇る第3ターミナルに降り立ちました。

今年2月末に使用開始されただけあって、斬新で優雅な内装は、今まで利用した空港では、ピカ一です。

国内線用ホール、北京オリンピックのチャーター便専用ホールと、国際線用ホールの3つのターミナルがあり、移動には、全自動新交通によるシャトルトレインを利用できますが、その分、空港出口までは、今まで以上の時間を要します。

ようやく出口に辿り着き、昨日も確認を入れましたが、開業していないという空港線リニア駅方面に向かいました。

天井は、大きなガラスドームで建築されていて、夏の日差しを浴びて、温室というよりサウナ風呂状態です。

試運転と思しきトレインが止まってました。駅員も多数いるので何となくおかしな雰囲気です。駅員にいつに開業するのかと聞いてみると、今日の14時との思いもかけない返事に仰天、歓喜しました。

取材中の記者もいましたので、聞いてみると、今日朝に政府から連絡があった。チベット問題等や、オリンピックを控えてのテロ行為を防止するために直前まで、発表はなかったと言います。

1番電車に乗車できるとは、日頃の行いが良かったせいと自画自賛して、発車までの間、しばらく新空港を見学してから戻ってみると、数十名が切符を購入するために並んでいました。

ICカードの購入が必要ですが、自動発券機は、25元(約320円)きっちりと入れないと発券できません。おつりが出ないので、誰も並んでいません。殆どの乗客は、手動で発券する窓口に並んでいます。

財布から25元を取り出して、1番で入場できました。まだ、始発電車は入っていません。先頭車乗車口の先頭に荷物を置いて、カメラをかかげて、到着を待ちました。

天津軽軌開業の時とは違い今日は、撮影禁止の声も聞こえません。堂々と撮影ができました。運転席後部の特等席に撮影場所をとり、シャッターをきり続けました。

派手な事が好きな中国なのに、くす玉やテープカットもない静かな開業風景は、初めてです。取材のTVカメラすらありません。それ程、急な開業発表だったのかが分かります。

ただ私の横では、女性新聞記者1名が運転手のサポートをする助手に名前やら感想やらをしきりに聞いていました。

記念すべき14:07、静かに北京空港駅を発車した1番列車は、空港を出ると、左側に車庫を見ながら、複線区間からポイントを経て、単線区間に入り、大きく右に回り、トンネルに入りました。

停車した駅は、第2ターミナルでした。5分間の停車時間に運転手が後部に移動します。スイッチバックで、終点の環状2号線の東直門駅を目指します。逆の東直門駅からは、直接に第3ターミナル着となります。

私も運転手の後を追い、運転席後でカメラを向けました。しばらくは、トンネル区間で、出るとすぐに高架区間になります。

加速も良く、空港高速道路を右側に見ながら、直ぐに90km/hをオーバーして100km/h近くでの連続高速走行です。途中で、高速道路をオーバークロスします。

建設前には、高速道路両側の木々を伐採しての工事を余儀なくされ、中国政府の掲げる全土緑化運動に反すると、問題にもなりましたが、空港リニア線両側には、木々も復元されました。

深緑の緑の木立を抜けると、北京市内の高層ビル街を通過します。環状4号線道路近くで、地下区間に入ります。

市内の最初の駅は、当日同じく開業した10号線の三元橋でした。結構、多くの乗客が下車しました。

終点の東直門駅には、14:40に到着。28.5kmを所要時間33分。表定速度は、51.8km/h、平均速度は、68.4キロでした。

渋滞する高速道路利用から、待ち望まれた空港線です。空港駅では、大きな重いスーツケース等をカートに乗せて、改札口まで持って行けますが、到着出発する側の東直門駅では、問題点があります。当日の出口は、1カ所で、エスカレーターやエレベーターがありません。

環状2号線への乗り換えも同様です。広州やシンセン地鉄では、バリアフリー化が完備されていて、利用者の不便はありませんが、全く設備されていません。これでは、利用をためらいます。

全世界から訪れる首都北京です。なぜに設備されなかったのか、疑問と言わざるを得ません。ご利用される皆様、この点を重々ご承知の上で、北京駅へはリムジンバスにずるかのご選択を下さい。

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