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【1474】スハ3325>感激
 K.H.生  - 08/7/11(金) 2:27 -
  
昭和38年ということは新幹線の前年、まだマロネ29のC寝台が健在な
時代ですね。
この写真でみるとリベットの並びも綺麗だし予備車とはいえ元特急用の
風格がまざまざ、模型化したくなりました。アンチクライマーも備えてます。
写真もお値打ち品ですが、車両も値打ちがあり、その臨急に乗り合せても
10号車に座った人でこの車両の由来を知っていた人は喜んだかも
しれません。

2重窓のアルミ枠がまた美しい。僕は一時期の夜行用に用いられた客車に
付いていた虫除けの網戸かと思ったのですが、また別のものでしょうか。
車体塗色は茶色でしょうね。

>スハ44の戦前型と例えたのは間違いでした。のちに富士用に作られた
オハ34に近い性格の客車ですね。

また2代目スハ33と両車が混在した時代があったことは勉強になりました。
しかし接取解除の客車というのは、どことなく品がありますね。
酷使されてないのと元もとの育ちの良さは隠せません。
貴重な写真、ありがとうございました。
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【1473】飯田線のこと
 893-2  - 08/7/11(金) 0:47 -
  
【1449】で藤本先輩より飯田線の写真について問いかけを頂きましたが
あの、写真は七久保−伊那本郷で間違いありません。
先輩方の書き込みを拝見していると、きっちり記憶と記録があり
すごいの一言しかありません。私は不精なので記憶の記録も曖昧ですが
前後のコマから推測すると多分1983年3月15日の撮影と思われます。
写真班の春季撮影旅行とノートの記録があるので、同じ写真を保持して
いる方は他にもおられると思います。
この時私は、3/14に家を出て東京に向かい青梅線でED16を撮影し
夜に新宿から441Mで上諏訪へ急行天竜1号で辰野に行き6:31発の
226Mで大田切へ30分ほどの間に1〜2本撮影し8:13発の232Mで
七久保へ、ここで件の写真などを撮影し13:15発の240Mで上片桐へ
行きこの日は天竜峡泊。3/16は金野、市田、下平、辺りで撮影し
駒ヶ根泊。3/17は赤木辺りで撮影後聖地伊那松島へ行き13:17発の
急行伊那1号で上諏訪→小淵沢→小諸→上田(夕食)→軽井沢で
小海線を乗り潰して23:24発の急行能登601レで富山へ行き、高山本線
に乗り継ぎ神岡線を走破して高山→下呂→岐阜→(米原)→大阪の行程で
当時の信州ワイド周遊券を目一杯使用した行程でした。
高山は季節はずれの雪で結局早くに切り上げたので大阪着は17:39と
夕刻には帰阪しています。
当時は飯田線旧国最後の冬ということで何度か通っていました。
旧国は子供の頃、最寄の国鉄が阪和線であったので非常に愛着があり
ました。阪和線は東海道線のお下がりが来る路線で、旧国は評判が
悪かった(雨漏りがする、夏暑いなど)のですが、独特の匂いや
釣り掛けのモーター音が好きでした。阪和線(紀勢本線、阪和貨物線
も含む)は当時、ブルドックのキハ81やEF52、EF15、70系など
バラエティに富んだ車輌が走っており、線路端で飽きることは
ありませんでした。その、線路端も先年高架になり当時の面影はなく
阪和貨物線も休止となり、時代の移り変わりを感じます。
写真は1、2枚は同じ日に撮影したもの、3枚目は1976年3月31日の
豊橋駅、4枚目は1975年11月3日の天オト、5枚目は4枚目と同じ日の
美章園駅で70系+旧国2連です。

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【1472】スハ33
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/7/10(木) 23:01 -
  
スハ33についての書き込みを拝見すると、内容が初代に関するものと2代目に関するものが混在していると思われますので整理してみました。

初代と2代目の決定的な違いは、初代はオリジナル車に対し、2代目はスハ32の台車振替に伴う形式変更車であることで、スタイル的には初代がダブルルーフに対し、2代目はシングルルーフ、台車は初代はTR23に対し、2代目はウィングバネのTR40BまたはTR47、定員は初代は特急用として作られたため80名、2代目は88名となっています。

【1453】で長老が撮影されているスハ3318は初代です。四国の初代スハ33はこの1両のみ(配置は松山)ですので大変貴重な写真です。ちなみに四国には2代目の配置はありません。
【1454】の井原 実さんの書き込みは初代、【1456】の米手作市さんと【1460】のぷるぷるさんは2代目、【1459】のK.H.生さんは前半が初代、後半が2代目に関するものであります。

初代と2代目は全く別物であるにも関わらず、両方が存在していた時期があり、これが混乱に拍車をかけているものと思われますので、【1454】の井原 実さんの書き込みと重複する部分もありますが、復習の意味で再度書き込みさせていただきます。

初代スハ33
木製特急用客車(スハ28400形)の置換え用として、昭和5汽車会社と日車支店で19両製造、当初の形式はスハ33900形(33900〜33918)であったが昭和12年3月スハ32550形(32550~32568)に改番された。座席(定員80名)は2人掛の傾斜付固定シートで、東京〜下関間の特急「櫻」に使用されていたが、戦時体制拡大による傷病兵輸送の必要性から昭和12年から13年にかけて、17両が病客車スヘ32550形に改造された。昭和16年の称号改正で病客車がスヘ30に、改造されずに残った2両がスハ33にとなった。スハ33は1両が戦災により廃車、戦後、病客車は長老が撮影されたスハ3318の前身スヘ308以外は連合軍に接収され、一等寝台車、病院車等に改造された。返還後は通常のクロスシートとなり、スハ33の11〜26となった。

木製特急用客車(スハフ28800形)の置換え用として、昭和5汽車会社と日車支店で
12両製造、座席(定員72名)は前述のスハ33900形同様2人掛の傾斜付固定シートで、東京〜下関間の特急「櫻」に使用されていた。当初の形式はスハフ35250形(35250〜35261)であったが、昭和12年に全車病客車スへ35250形に改造、昭和16年の称号改正でスへフ30形となった。戦災で3両廃車、戦後は座席車として復活した1両以外は連合軍に接収され、一等寝台車に改造されたが、返還後はスハ33の31〜38となった。座席車として復活したのはスヘフ3011で、スハ36103を経てスハ333となった。

連合軍返還後のスハ33は1、3、11〜26、31〜38の26両であったが、昭和33年10月1日時点での配置は、室蘭7両(11、12〜16、19、35)函館7両(20〜26)品川2両(13、17)米原6両(31〜34、37、38)糸崎1両(3)松山1両(18)大分1両(1)で、北海道にまとまった両数が配置されている他は、全国に散在していたため、人目に付きにくい存在であった。(米原の6両は後に名古屋に転属)昭和37年から38年にかけて17両がオハネ17に改造、残りの9両も昭和44年2月までに廃車された。

2代目スハ33
昭和41年から46にかけて、スロ54の冷房改造、スロネ30等の荷物車改造の際、重量増加を避けるためスハ32の履いていたTR23を供出し、TR40Bに履き替えたもので、120両に実施された。形式のみスハ33に変更され、スハ32時代の番号をそのまま使用した。
また、オハネ17に電暖を付ける際、やはり重量増加を避けるためスハ32の履いていたTR23を供出し、TR47との履き替えが20両実施され、スハ32時代の番号+1000番を車番とした。

1.スハ3325(函ハコ)   昭和38年12月25日
初代スハ33で、昭和5年2月日車支店製。スハ33908として誕生し、スハ32567→スヘ3016→連合軍接収スイネ308を経てスハ3325となった。
撮影時の所属は函館で、北海道用のため二重窓、内窓はアルミサッシに交換されていた。オハネ17に改造されることなく昭和42年11月廃車となった。
写真は年末年始の臨時急行「第2雲仙」に連結されていたもので、この当時の臨時急行は全国各地から予備車を寄せ集めて編成され、背擦りが板張りのオハ61、オハ62が連結されていた。また次の年の「第2高千穂」には編成中にオハフ608が連結されており、よく苦情が出なかったものである。
[参考]
昭和39年1月8日 第2高千穂、第2雲仙の編成(客車は12月25日も同じ)
EF5873+スロフ5312(東シナ)+スハ32299(高ミヤ)+スハ32195(高ミヤ)+スハ32186(高ミヤ)+スハフ422306(東シナ)+オハ6262(函ハコ)+スハフ422044(東シナ)+スロ5127(東シナ)+スハ3325(函ハコ)+オハ614(水タラ)+オハ47109(東シナ)+オハ46390(門ハイ)+オハフ61688(高タカ)
1〜7号車「第2高千穂」都城行(6、7号車大分行)8〜13号車「第2雲仙」長崎行

2.スハ33763(大ムコ)  昭和44年2月25日
2代目スハ33で昭和14年日車製、昭和41年5月台車を交換してスハ33763となった。(昭和46年10月26日付廃車)

3.スハ32752(大ムコ)  昭和41年4月8日
昭和14年日車製、台車交換済であるがスハ33に形式変更はされていない。スハ33になったのは、書類上は昭和41年4月27日付となっているが、1ヶ月以上経過した5月18日撮影時でもスハ32のままであった。(昭和46年3月3日付廃車)

4.スハ32125(大ムコ)  昭和40年8月28日[参考]
昭和5年大阪鉄工所製、ダブルルーフのスハ32は昭和4年から6年まで158両作られた。(昭和41年9月22日付廃車)

5. スハフ32247(大ムコ) 昭和44年2月25日[参考]
昭和13年帝国車両の前身の梅鉢鉄工場製。スハ32の緩急車で、昭和4年から7年にかけてダブルルーフ車105両、昭和7年から15年にかけてシングルルーフ車311両作られた。(昭和47年3月27日付廃車)
撮影場所はいずれも京都駅である。

添付画像
【スハ3325.jpg : 146.9KB】

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【スハ33763.jpg : 96.7KB】

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【スハ32752.jpg : 64.4KB】

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【1471】どうでもいいような・・・
 田野城 喬  - 08/7/10(木) 18:08 -
  
@山陰線京都口の複線化が終わりに近づいた。
子供の頃から楽しい場所であった大宮陸橋下の木陰で見ているとふしぎなことに気づいた。
丹波口を出た山陰線は梅小路公園の周りを回り込んで東海道線の北側へ合流するのだがレベルになる地点に大宮陸橋の橋脚がある。これをどう避けるのかな、と言うのが興味の的だった。そのままは来られない。北へずれると現行線と接触する。かといって南へずれると京都駅からの引き上げ線と接触する。固唾をのんで見ること数年、結論は直前で現行線への合流であった。ということは京都駅から大宮陸橋を過ぎたところまでは単線ということになる。
山陰線は全線が複線化しても京都駅側数百メートルは永久に単線ということなのか?

A7月26日に京阪中の島線を歩いてくる。15時に公会堂に集合して地下線路を歩くというのだ。鉄道ファンではない友人が権利を持っているのでと誘ってくれた。
写真を撮って載せるのでご希望があれば書き込んで下さい。できるだけご希望に添うよう努力します。
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【1470】明治・大正期の木造客車
 K.H.生  - 08/7/9(水) 13:05 -
  
留萌にいた旧日鉄系の客車、長年の改造で
デッキドアも屋根のベンチレ&#8722;タも後年のものでしょう。
それでも好ましい。
模型化で再現しようとした似たスタイルを本で見た記憶があります。

それにしてもこの時代の客車に乗った人が生きている内に
なんとか保存して欲しかった。四十年経てば記憶も資料も
逸散してしまい、検討価値も難しい。
大分交通に沢山いた木造車もなく、江若鉄道の旧関西鉄道系は鋼体化され
ましたが、みんな今では写真で偲ぶのみ。
明治、大正から昭和の庶民の旅と暮らし、さらに小説や絵画の舞台に
なったこれらの車両がもう少し残されていたならなあと
思います。
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【1469】留萌鉄道
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/7/9(水) 0:00 -
  
総本家・青信号特派員さん書込み、【1417】天然色で振り返る40年前の日々―10―(08/6/10)で、明治鉱業昭和鉱のクラウス17号機を当時としては珍しいカラー写真で紹介されておられます。
本文の中で「途中の駅にはかつて使用されていた木造客車が留置されていた」と書かれておられますが、たまたま、その客車を撮影しておりましたので紹介したいと思います。

途中の駅とは、恵比島の次の幌新駅、客車はホハフ2854とホハニ201の2両です。
ホハフ2854の経歴は明治42年3月大宮工場製で、昭和27年12月国鉄より譲受、車番は国鉄時代のものをそのまま使用しております。(写真1)

ホハニ201は、ホハフ2854と同時期に国鉄より譲受けており、国鉄時代の旧番はホハ2213で、留萌鉄道で車掌室を設置してホハフ201、昭和29年に荷物室を設置してホハフ201となり、昭和32年の更新修繕で写真のスタイルになりました。前歴は明治35年日本鉄道大宮工場で、い361から国有後イネロ5060→ロネロ5080→ホロネロ250→ホロヘ6580→ホハフ2213と変化しました。(写真2)

この2両、実は留萌鉄道廃止後、明治村に保存される予定で、車体を補強して名鉄東名古屋港駅まで運ばれたのですが、車体の状態が余りにも悪く、結局台車のみ保存されることになりました。

私自身、北海道には現役時代、昭和42年と44年の2回行っております。総本家・青信号特派員さん筆頭に、皆さん蒸気機関車を中心に撮影されておられましたが、私は簡易軌道と私鉄を中心に回っておりました。写真3〜5は天北線の小頓別と歌登を結んでいた歌登町営軌道です。

写真1と2は昭和42年9月6日幌新で、3〜5は昭和44年9月8日歌登で撮影

添付画像
【ホハフ2854.jpg : 98.0KB】

添付画像
【ホハニ201.jpg : 96.8KB】

添付画像
【歌登自走客車.jpg : 39.4KB】

添付画像
【車内(4).jpg : 47.9KB】

添付画像
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【1468】こだま試運転
 湯口 徹  - 08/7/7(月) 10:10 -
  
[1463]でモハ20の試運転を撮りに行ったと書いたら、早速某氏からその写真を出さんかいとの強要、いやお勧めが。すぐ誘いに乗るのもいささか忸怩たる思いがしないでもないが、これもボケ抑止の一環とする。

ネガを出すとげんなりするほどの「鎌鼬」にやられているが、山ほどある「やられっぱなしネガ」のいささかでもの修復シュミレーションと考え、フイルムクリーナーと脱脂綿、それにフォトショップ(残念ながらスキャナー同梱のエレメンツ)でほぼ一時間格闘した。

72歳目前(あと2.5か月)の老人にはかなり負担の重い作業だが、まあ掲示板でご覧頂くぐらいにはなった。ただ大きなファイルでプリントしたり、印刷原稿となると、アラが目立ってさらに数段の研鑽努力が必要である。

話の種に、フイルムクリーナーだけでデジタル修正していないD52の写真も添付しておく。同じ時に撮ったもので、バックに今はない三越が見える。

一連の撮影は1958年9月17日に川車製造分、大阪駅。右側に福知山線のC11バックが写りこんでいる。

京都駅のは9月24日近車製造分。三宮そごう屋上からもこの日。当時三宮はジャンジャン横丁が健在(1964年ごろまで)で、猥雑な雰囲気が旺盛だったし、まだ人力車も客待ちしていた。バックの阪急会館は地震で崩壊したが、小生はその前夜映画を見ていた。確か「スピード」だったか。

神戸駅での撮影も同じ日だったと記憶する(アテにならないが)。矢張りバックに神戸地裁が写っているが、現在では1、2階部分のみ古いファサードを残し、その上にガラス張りの建物を載せた、珍無類?なものになっている。

添付画像
【こだま試運転.jpg : 190.8KB】

添付画像
【こだま試運転京都駅.jpg : 249.8KB】

添付画像
【こだま試運転神戸駅.jpg : 229.3KB】

添付画像
【こだな試運転三宮.jpg : 210.3KB】

添付画像
【鎌鼬にやられたD52.jpg : 331.6KB】
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[添付]〜添付ファイル〜
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【1467】蛇足>辰野
 K.H.生  - 08/7/7(月) 3:22 -
  
駅前に箕輪屋という「駅前旅館」が残っています。
明治31年?でしたけ。中央線が開通時の開業で建物は築100年くらいだそうです。
一部は3階建てでした。
3年くらい前に偶然泊まり、昨年行ってみたら少し綺麗に改装されてました。
基本は建て替えておりません。
古老の方々の昔を偲ぶ旅にお勧めします。

http://www.cnet-kiso.ne.jp/k/kisojin/newpage1箕輪屋.html
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【1466】Re:クハユニ>
 K.H.生  - 08/7/7(月) 3:11 -
  
非貫通、半流型+合造車
たったそれだけのことなのですけど
客車列車を電車にいっきに置き換えるにはいろんな
用途がいったようで。
ただそれでも、この設計がクハ86に繋がったのかも。
いやクハ52だとか、反論ご自由に
横須賀線のモハユニ44との存在の違いの理由についてなり
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【1465】Re:飯田線 クハユニ56
 乙訓の老人 E-MAIL  - 08/7/6(日) 7:50 -
  
▼藤本哲男さん:

つまらんクハユニ
DRFC飯田線探訪の23年後、家族旅行で八ヶ岳の麓(小海線沿線に非ず)へ行った帰路、天竜川沿いを走る国電に乗らないかと提案したら、渋る母親を横目に、娘(高1)息子(小6)が大賛成となり辰野から南下のコースを辿りました。道中、伊奈谷の地形を中心に解説してやりました。このときドンキホーテの面々と雪の中を恵那峠に向けて難行したことなどを思い出しました。
天竜峡止の電車だったので、「天竜1号」だったのかな。昼飯にしようと対岸の
そば屋に入りました。子どもたちは「てんぷら!」と言ったので全員そうなった
のですが、でっかい海老天が2ケ載っておりびっくり。お代も1杯500円。名古屋の食文化が天竜峡まで及んでいるとは……。
さて本題、やってきた辰野発豊橋行きに乗車。息子は先頭車へ行くもすぐに戻ってきて、「お父ちゃん、つまらん」とおっしゃる。クハユニ先頭ではかぶりつきでの展望は絶望。線路付け替え区間は後部へ連れて行き解説してやった。
3年前、、天竜川下りを仕事仲間と楽しみました。「そば屋」は土産物屋に転向していました。川下りの時、カメラを構えていましたら1回だけ119系2連が上流にむけ木立越しに走り去るのが、目に入りました。

>長老の書かれた「DRFC初の一泊旅行記」楽しく拝見させていただきました。もし今でも112レと同じ時間帯の列車が運転されていれば、「青春18」で同じコースを辿ることも不可能ではないかも知れませんね。それにしても、40年前に当会に「鉄子さん」が2人もおられたとはビックリです。お元気であれば、是非クローバー会総会にご出席いただき、当時の思い出話等お聞かせいただければと思います。
>
>昭和41年3月、112レとほぼ同じ時間帯の列車、大阪23時50分発東京行144レで飯田線の電車撮影に行ったことがあります。
>
>長老が撮影された写真の件、トップはクハユニ56で、車号は郵便・荷物扉の形状から56004と特定できます。クハユニ56は飯田線にのみ在籍した(例外は後で書きます)形式で56001〜004、011、012の6両在籍しました。001〜004は元クハニ67で旧車号は順に001、003〜005、昭和26年から27年にかけて、座席のセミクロス化、郵便室、トイレの取付けを行い飯田線に転属しました。001は昭和11年製、002〜004は14年製でノーシル・ノーヘッダーとなっています。
>
>011と012は、戦時中の昭和18年、横須賀線用のモハユニ61001〜003として作られたものの電装されたのは後にクモハユニ64000となった001のみで、002、003はクハユニ代用で使用され、昭和27年に、セミクロス化、トイレの取付けを行い、正式にクハユニとなり、飯田線に転属しました。
>
>3番目の荷電はクモニ13で、車号はパンタの形状(補強付PS13)から13034と特定できます。飯田線では、025,026、034の3両在籍し、昭和42年頃まで自連付で写真のようにワム+ワフを引いておりました。
>
>撮影された場所は中部天竜駅となっておりますが、クモニ13の写真から見た構内配線、バックの風景から3枚目までは平岡駅と思うのですが如何でしょうか。(駅構内の雰囲気は中部天竜、平岡ともによく似ています)
>
>1.クハユニ56001  昭和48年3月25日  松本駅
>昭和11年12月の松戸電化の時クハニ67001として作られた。昭和26年11月豊川分工場でクハユニ56001に改造。
>飯田線専属の車が松本に居た理由は次の通りである。昭和48年5月27日付で中津川〜塩尻間が電化され、上松〜聖高原間にローカル電車を運転するに当り(松本〜麻績・聖高原間は以前からキハ07→キハ52が運転されていたのでその置換え)、第一陣として中部天竜からクモハ51804、沼津からクハ68001、68011が北松本に転属した。3両では不足のため、豊橋からクハユニ56001、沼津からクモハ51850が貸出された。3月23日、豊橋から56001+51804の2連が富士に向けて出発。(飯田線を北上すると松本到着時に向きが変わってしまう)富士で後部にクハ68011+68001+51850を連結、翌日向きが変わり、51850を先頭に身延線を北上、甲府からそのまま中央西線に入り松本に到着した。56001は特殊な車のため使用されることは少なく、8月頃返還されたが、51850は1年以上も使用され、その間に青22号に塗り替えられてしまい、返還後スカ色に戻された。
>
>2.クハユニ56011     昭和48年7月28日  豊橋機関区
>昭和18年11月モハユニ61002として作られるも、時節柄電装品不足のためクハ代用として使用。座席は本来セミクロスの予定のところ、板張りロングで、しかも半減されていた。昭和27年4月豊川分工場で本来のセミクロス化、トイレの取付けが行われ、クハユニ56012となった。
>
>3.クハユニ56003     昭和40年3月20日  豊橋機関区
>長老が撮影された56004と同じノーシル、ノーヘッダーのグループで、元クハニ67004である。
>旧形国電は、戦後の更新修繕や使用線区に応じた小改造等で1両毎に差異が生じているため、車両の特徴さえ掴めば車号の特定は容易である。
>
>4.クハユニ56002他3連  昭和52年5月4日  田切〜伊那福岡
>56002は客室扉が旧タイプの桟付であった。
>
>5.ED191の引く貨物列車  昭和46年9月25日  伊那新町〜宮木
>
>湯口 徹様
>大先輩から過分なお言葉をいただき有難うございます。旧形国電の話題になると年甲斐も無く血が騒ぎます。ただそれだけですので。
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【1464】飯田線 クハユニ56
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/7/5(土) 22:29 -
  
長老の書かれた「DRFC初の一泊旅行記」楽しく拝見させていただきました。もし今でも112レと同じ時間帯の列車が運転されていれば、「青春18」で同じコースを辿ることも不可能ではないかも知れませんね。それにしても、40年前に当会に「鉄子さん」が2人もおられたとはビックリです。お元気であれば、是非クローバー会総会にご出席いただき、当時の思い出話等お聞かせいただければと思います。

昭和41年3月、112レとほぼ同じ時間帯の列車、大阪23時50分発東京行144レで飯田線の電車撮影に行ったことがあります。

長老が撮影された写真の件、トップはクハユニ56で、車号は郵便・荷物扉の形状から56004と特定できます。クハユニ56は飯田線にのみ在籍した(例外は後で書きます)形式で56001〜004、011、012の6両在籍しました。001〜004は元クハニ67で旧車号は順に001、003〜005、昭和26年から27年にかけて、座席のセミクロス化、郵便室、トイレの取付けを行い飯田線に転属しました。001は昭和11年製、002〜004は14年製でノーシル・ノーヘッダーとなっています。

011と012は、戦時中の昭和18年、横須賀線用のモハユニ61001〜003として作られたものの電装されたのは後にクモハユニ64000となった001のみで、002、003はクハユニ代用で使用され、昭和27年に、セミクロス化、トイレの取付けを行い、正式にクハユニとなり、飯田線に転属しました。

3番目の荷電はクモニ13で、車号はパンタの形状(補強付PS13)から13034と特定できます。飯田線では、025,026、034の3両在籍し、昭和42年頃まで自連付で写真のようにワム+ワフを引いておりました。

撮影された場所は中部天竜駅となっておりますが、クモニ13の写真から見た構内配線、バックの風景から3枚目までは平岡駅と思うのですが如何でしょうか。(駅構内の雰囲気は中部天竜、平岡ともによく似ています)

1.クハユニ56001  昭和48年3月25日  松本駅
昭和11年12月の松戸電化の時クハニ67001として作られた。昭和26年11月豊川分工場でクハユニ56001に改造。
飯田線専属の車が松本に居た理由は次の通りである。昭和48年5月27日付で中津川〜塩尻間が電化され、上松〜聖高原間にローカル電車を運転するに当り(松本〜麻績・聖高原間は以前からキハ07→キハ52が運転されていたのでその置換え)、第一陣として中部天竜からクモハ51804、沼津からクハ68001、68011が北松本に転属した。3両では不足のため、豊橋からクハユニ56001、沼津からクモハ51850が貸出された。3月23日、豊橋から56001+51804の2連が富士に向けて出発。(飯田線を北上すると松本到着時に向きが変わってしまう)富士で後部にクハ68011+68001+51850を連結、翌日向きが変わり、51850を先頭に身延線を北上、甲府からそのまま中央西線に入り松本に到着した。56001は特殊な車のため使用されることは少なく、8月頃返還されたが、51850は1年以上も使用され、その間に青22号に塗り替えられてしまい、返還後スカ色に戻された。

2.クハユニ56011     昭和48年7月28日  豊橋機関区
昭和18年11月モハユニ61002として作られるも、時節柄電装品不足のためクハ代用として使用。座席は本来セミクロスの予定のところ、板張りロングで、しかも半減されていた。昭和27年4月豊川分工場で本来のセミクロス化、トイレの取付けが行われ、クハユニ56012となった。

3.クハユニ56003     昭和40年3月20日  豊橋機関区
長老が撮影された56004と同じノーシル、ノーヘッダーのグループで、元クハニ67004である。
旧形国電は、戦後の更新修繕や使用線区に応じた小改造等で1両毎に差異が生じているため、車両の特徴さえ掴めば車号の特定は容易である。

4.クハユニ56002他3連  昭和52年5月4日  田切〜伊那福岡
56002は客室扉が旧タイプの桟付であった。

5.ED191の引く貨物列車  昭和46年9月25日  伊那新町〜宮木

湯口 徹様
大先輩から過分なお言葉をいただき有難うございます。旧形国電の話題になると年甲斐も無く血が騒ぎます。ただそれだけですので。

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【1463】モハ90
 湯口 徹  - 08/7/5(土) 12:07 -
  
山科クイズでの藤本哲男氏のお答えは何時もながら感心させられますな。日付を入れたのは、その前日近畿車両製の最初の4連試運転があったからで、運用番号が形式に合わせ90と表示されているのも、関係者のお遊びであろう。その翌朝早くも上京してしまった。

この自力回送方法が何時まで続いたのかは知らないが、貨物列車に組み込む甲種輸送では、編成前後の密連を自連に付替えねばならないのを避けるためか。これも教えてくだされ。

余計なことだが、小生はこののちビジネス特急モハ20系試運転を撮りに行ったのち、ほぼ国電撮影はしていない。正確には塚口に引っ越した直後、尼崎でタンクローリーが橋桁にぶつかって走行中の国電が焼けた事故があり、それが最後だった。

これも自慢にならないが、阪急神戸線での通勤を〆て41年続けたのに、その間1枚も阪急(に限らないが)の写真を撮っていない。地震の復旧工事で軌陸車が日本にこれだけあったのかと驚くほど多数、JRと各私鉄に集っていて、それを撮ったバックに阪急がチラリ、というのがあるだけ。

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【1462】追・生きていたNEOPAN SS
 乙訓の老人  - 08/7/4(金) 14:54 -
  
DRFC初の一泊旅行

またしてもNEOPAN SSとKonidolfineのコンビで、温度、現像時間は?である。これもフィルムベースはしっかりしている。このコンビで半年前に京阪を激写したものは哀れ八ツ橋または日高昆布と化した。東北旅行も同じコンビで自家現像だが、今も健在である。カメラはLEOTAX、レンズはキャノン、セレナー50ミリF3.5 沈胴式である。現像は主に祇園・唐船(お座敷天婦羅屋で庭の築山が暗室。親父の友人宅)でやっていた。ここに現像液が常備されており、出入りしていたのである。後に須磨の大人にぼろくそに言われ、旦那出入りの光楽堂に切り替えたが、それらは哀れな姿となった。
さて今回は学割使用の一泊旅行時の我らが姿を紹介しよう。プランナーはU代目会長・旦那である。1959年11月2日夜0時、京都駅1番線に握り飯3食分持参で集合となった。日が替わり、上り1番列車112レ門司7:39始発東京行普通列車に乗車である。我々にはお馴染み列車で、京都0:13着、0:21発である。当時のこととてEF58先頭にオハ35系中心に12〜15両がつながれていたであろう。乗るなり一泊である。この時、日月火(3日)の飛び石連休であったが、満員であった記憶はない。1ボックスに2人で悠々と足を伸ばしていたに違いない。
豊橋を前に会長はみんなを起こし、接続時間があまりないから用意しろと言った。豊橋5:56着。飯田線ホームへ走ったことを覚えている。乗ったのはモハ14先頭の2連、相棒はクハユニ?。(哲男君の説明を期待する。)老人は東海道線での寝不足がたたり、すぐ寝てしまった。ひょっとして一升瓶を囲んでいたのかもしれない。中部天竜で起こされた。目の前にED191がありカメラ片手にうろつく。対向の荷電が遅れでやって来たところでスタート。ダイヤ上は7:44着、7:46発である。これより記憶なし。そして辰野に12:01着の筈。駅前広場に出て“信州そば”にありつく。伊那バス、諏訪自動車をスナップ。メンバーの集合写真は撮り忘れ。今回の参加者は旦那様、糸屋のボンこと小川君、渡辺ドンさん、津川君、鈴木あきちゃん、奥山君、田口君、田村女史、藤村嬢、沖中小使の10人。ひょっとして工藤君を落としているかもしれない。
辰野12:51発411レ新宿発松本行である。当然D51牽引で塩尻13:20着。3回目の乗り換えは14分の接続で、826レ松本発名古屋行普通列車となる。目の前にセミなめくじD5122がいた。これが前補機となったかどうか?で、D51重連で鳥居峠に挑むことになった。木曽路の覚えなく名古屋18:18着。きしめんを食ったように思う。
これよりラストスパート。今回最大の贅沢である。411レ名古屋18:40発神戸行準急“第2伊吹”に乗車。147.6q先の京都へ116分後、20:36着。表定速度76.35q/hとなる。当時の花形特急“つばめ”1レは所要117分、表定速度75.69q/hである。特急より早い準急として評判になった。“つばめ”はEF58牽引であった。ちなみに電車特急“こだま”103レは所要106分、表定速度は83.55q/hであった。
“第2伊吹”は大阪21:58着。これで女性会員2人はこの日の内に御帰宅いただけた。学割運賃490+180円、準急料金+70円、合計740円となる。NEOPAN SS1本250円、現像料50円、プリント名刺判1枚10円が標準。明徳館地下食堂素うどん10円、定食35円。これを基に現在の運賃と比較すればどうなるのか……。
今回はスカタンないはず?

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【1461】Re:続・生きていたNEOPAN SS
 今出川浄福寺  - 08/7/4(金) 13:37 -
  
 スカタン列車も漸う大団円となった由。まずは、めでたしめでたし。

 さて、乙訓の老人様が夢にまで見られた三重連はちゃんと急行の看板を付けております。(土佐電鉄630他s.jpg)
 11月末ともなりますと日の出と共に安芸から来ますから、モロに逆光で、まともに撮影できた代物ではなく、一寸状態の悪い写真で、申し訳ないです。
軌道線に入ると、後ろ一両を切り離し、続行運転をしました。
 昼間も市内線の乗り入れがあり、路面電車で太平洋を眼下に高速走行する様は真に爽快でしたネ。(土佐電鉄628s.jpg)

 板バネをコイルバネに改造した300形にも乗ってみました。それなりにピッチングにローリングをしておりましたが、フルノッチで走行していることから勘案すれば、効果があったのかもしれません。(土佐電鉄323s.jpg)

 路面電車の三重連は、富山地鉄射水線でも走行しておりました。(富山地鉄射水線s.jpg 5039+5020+5036)
 廃線前のダイヤ改正では朝の運行本数が減らされた為、なんと四重連になったのにはビックリ。 残念ながら撮影には行けませんでした。

 余談ですが、超低床車の乗り心地はどう思われますか? 
 広電のドイツのシーメンス社製 GREEN MOVER を鉄道線で乗車した時感じたのですが、これは2軸単車の乗り心地だ、と。要するに、籠かき電車が繋がったもの。ピッチングやローリングが前後に車輌があることで抑制されている様に思われます(40Km/h の市内線では揺れが少なく解らなかった)。
 欧州の発想は、趣味人にとって真に面白いのである。

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【1460】Re:スハ33
 ぷるぷる  - 08/7/4(金) 11:36 -
  
DRFCに入会した1年生の夏でしたか、一期上のKさんと氏のご尊父の職場でアルバイトをさせていただいたことがありました。場所は吹田駅の近所でしたので、当時住んでいた右京区の御室から妙心寺の境内を抜けて山陰線の花園まで歩き、国鉄で通うことにしました。

山陰線は朝夕とも客レでしたが、帰りの京都発園部行きにスハ33が連結されており、選んでよく乗りました。私が乗ったのはスハ32を台車交換したスハ33で、ジョイントを踏む音に重量感があり、乗り心地もよくて花園で降りるのが惜しく、何度か嵯峨まで乗り越して、嵐電で帰った覚えがあります。
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