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少し補足させていただきます。
▼乙訓の老人さん:
>スハ33
寝台車のなれの果てではなく、元特急用の2人掛固定座席スハ32550のなれの果てです。戦後は連合軍用に改造されたりもしました。また、正確にいうと、なれの果てではなく、仲間の多くは後にオハネ17に改造されました。「なんかの寝台車のなれの果て」とは、2軸ボギーですと旧スハネ30000,30100(→スハネ30,31)改造のオハ3413〜132のことでしょうが、これもなれの果てではなく、後に多くの仲間がスハネ30,スハネフ30と寝台車に戻りました。
スハ33,オハ34とも定員は80名ですから、スハ32やオハ35よりシートピッチが広く、特にスハ33の便所と反対側のいちばん端のボックスの座布団間の距離は他の固定座席の並ロよりも広く(オロ36よりも広い)、ゆったりしていたのでしょう。
▼K.H.生さん:
>四国に3軸ボギーが渡ったことがあるか、の方が考証学的には
>よほど面白いような気もいたします。
「渡った」の意味が「配置された」であれば、木製客車については残念ながら知りませんが、鋼製客車については、昭和39年以降では「配置」はありません。「配置」ではなく、「走った」という意味でしたら、昭和25年3月、四国にお召列車が初めて走って以来、国体や植樹祭がありましたし、最近ではマイテ49が走っているようですね。
>SLでも8620やC58くらいが中心です。パシなんて一度も走っていません。
湯口さんの真似で恐縮ですが、、決して揚げ足を取っているのではありませんので誤解のないようにお願いいたします。「パシ」が「パシフィック」の意味でしたら、たしかに「列車を牽引」してはいませんが、C59がボイラ代用として一時的に高松(?)にいたことがあったようです。
ただ、これは確かな記憶ではありませんので、間違っていたらお詫びいたします。
【1452】山科クイズその3
詳しいことは藤本さんがお答えになるでしょうから、私がわかる範囲で述べます。
後部に連結されているのはモハ90系×4両で、クハ79を先頭とする6連が牽引している回送列車です。方向幕が東京となっていますので、関東からもって来た編成でしょうか。この編成のまま本当に東京駅まで走ったのでしょうか?それとも田町かどこかに入ってしまったのでしょうか?
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