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先輩方からの過分のお褒めを頂き恐縮の極みです。
でも煽てには弱いのでまた投稿します。
湯口先輩の【1487】と【1489】もすごいの一言ですがこの【1495】
の長居駅の写真にはびっくりしました。
何を隠そうこの駅こそ私が生まれてから25年住んだ家の最寄り駅なのです。
阪和線は天王寺を出てから初めての退避駅が
ここ長居で地下鉄御堂筋線の長居駅とも近く乗換駅として案内していました。
2枚目の右の方にある「徳永外科」は私が小学2年生のときに鉄棒から
滑り落ちて左肩を骨折したときに診てもらった医者で石膏のギプスをはめられ
完治したときにその石膏のギプスを電動ノコギリで目の前で切られたときは
体が切られるかと思いいまだに鮮烈に記憶に残っております。
今では長居駅は高架になり面影はありませんがつい数年前まではこの雰囲気で
残っておりました。小学生の頃、放浪少年だった私は長居駅で子供10円の
天王寺までの切符を買い天王寺経由で大阪まで出て新快速で京都や姫路まで
行きそのまま折り返して天王寺で降りて、また10円で長居まで戻ってくるを
繰り返していました。残念ながら長居駅で写真を撮ったことはありませんし
阪和社型は物心ついたときにはすでに消滅しており(昭和42年にはまだ
幼稚園にもいっていない子供でした)かろうじて旧国末期に間に合った
というところです。鉄道ファンの1975年11月175号に阪和線特集がなされ私が
所有する数少ない鉄道雑誌のひとつですがこれにより、流電やED38、
阪和社型などを知りました。
【1489】の写真の阪和社型はモハ20を名乗っていますが
これは先日、【1468】で湯口先輩が写真を出していたこだま型が名乗って
いた形式をその当時まで日本で破られなかった評定速度81.2km(だったと
思います、間違いでしたらすいません)で天王寺-和歌山を走破していた
旧モヨ100にその番号を譲ったと言う話らしいです。
また、阪和の社型は他の買収国電と異なり買収当時の国鉄の車輌より
スペックが優れていたこと、まとまった両数があったこと(70数両)
により、そのまま国鉄車輌に編入された経緯があるとも聞きました。
地元の鉄道がそんなすばらしいものだったんだと子供心に嬉しかった
ものです。
長じて大学生になり飯田線の旧国末期に立ち会えたのは何か因縁が
あったのかもしれません。ちなみに秩父鉄道のED38と弘南電鉄に
あったモヨ100の残党には会いに行ったのですが、走行写真を撮ることに
こだわってしまい、結局写真が残っていません。
先日、中央西線のロクヨンを撮影に行ったときに大桑あたりで空木岳を
バックに写真を撮りながら山向こうは飯田線やなと思い起こし藤本先輩
と同じく旧国を駆逐した119系(でしたっけ)を撮影に行こうかなとか
考えてしまいました。
写真は1枚目は1983年5月29日の本長篠駅クモハ53007
2枚目は1983年8月20日のさよならゲタ電クモハ53008
3枚目は翌日1983年8月21日に乗車したさよならゲタ電「デカンショ祭り号」氏
と乗車。懐かしいです。(前日は快晴だったのですが涙雨?)クモハ53008
4枚目は1975年11月3日の鳳電車区
5枚目は1983年3月16日飯田線下平もしくは山吹駅
【IMG_0013.jpg : 235.1KB】
【IMG_0021.jpg : 208.7KB】
【IMG_0031.jpg : 222.6KB】
【IMG_0074.jpg : 256.6KB】
【IMG_0035.jpg : 240.9KB】
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