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このシリーズは大変興味深い、というより懐かしい。
というのはこの場所こそわが小学校区で、中心に安寧小学校と梅逕中学校があった。安寧小学校は堀川通りの拡張まで今の堀川塩小路交差点の真ん中にあり、拡張で西側に移転した後廃校となった。梅逕中学校も大宮陸橋と山陰線の交わる北東角にあったが統廃合で廃校となっている。
さて、乙訓の長老風に言うと小学校に通っている頃東海道線が電化され、蒸機の汽笛が鋭いホイッスルの響きに替わりEF15やEH10、EF58の牽く列車が通る度に見とれて先生に立たされたものであった。でも立たされた方がよく眺められるので一向に苦にならず、やがて先生も懲罰の効果がないことに気がついたか立たせなくなった。
手許に長老よりお預かりしている古地図がある。暇ができたらこれを眺めて妄想に耽るのが何よりの楽しみになっている。
明治期からの地図が系統だってファイルされてるので比較的見やすく、このシリーズでも地図と記憶を合わせながら楽しんでいる。
先の鉄路閣でも地図があるので推察や想像は簡単であった。以下に添付する地図は、上から
@明治42年(1909)作製の地図
A大正11年(1922)作製の地図
B現在の地図だが梅小路機関車館の表記がすでにあり、梅小路貨物駅も同時に存在しているので機関車館ができた昭和47年(1972)10月10日以降で、梅小路公園ができる平成6年(1994)までの地図である。
小学校の南側が道祖神社で不動堂町の名が残る。神社も敷地が削られて三分の一になった。その堺の道は塩小路通りで西洞院から西は狭い砂利道だったが@の地図にある通り南へ振っていた。しかし地図のように線路までは行かず今のロイヤルホテルの北側を西へ直進していたと記憶している。途中に粟嶋堂がある。地図には「おおみや」駅があるが、ここが梅逕中学校の位置であろう。
国鉄バスの車庫は塩小路西洞院を西へ行った南側、オムロン本社の位置にあった。最近までコインパーキングとして広場が残っていたのでこれは知っている方が多いと思う。ハトヤホテルの南隣でもある。石垣は塩小路通りからでもよく見えていた。
余談であるが七条大宮交差点は市電の分岐点だったが、昭和三十年代までは牛馬車が行き交うのどかな交差点でもあった。交差点内は花崗岩をブロック状にしたもので敷き詰められ、西洋の映画に出てくる広場のように思えたが、いまも一部が残っていた。大宮陸橋に沿って側道を南へ下がると東海道線の下へはいるがその直前の右側、陸橋の下にはいまも当時のままに扇形に敷き詰められているのが見られる。陸橋の上に残る市電の架線柱とともにいつまでも残しておきたい文化財である。
【s-明治42京都駅.jpg : 0.6MB】
【s-大正11京都駅.jpg : 442.2KB】
【s-昭和47以降京都駅.jpg : 413.6KB】
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