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◎現役最古の蒸機を訪ねる
昭和43年当時、北海道の私鉄は多くが盛業中だった。その使命は、定山渓鉄道以外すべてが運炭を主務としており、北海道にとって石炭がなお重要な産業であったと理解できるが、石炭を取り巻く状況は、日に日に変わりつつあった。
しかし多くの蒸機が残り、古典ロコあり、自社発注機ありで、国鉄ではもう見られなくなった私鉄蒸機を訪ねることが、北海道探訪の楽しみでもあった。そんな中で車齢が80年に達する、由緒正しき小型のタンクロコが北海道の片隅でひっそりと息づいていた。明治鉱業昭和鉱で構内の入換用として働くドイツ・クラウス社製のBタンク機、15号機、17号機だ。
ここへは、札幌からだと、深川まで行き、留萌線に乗り換え、恵比島へ。ここから留萌鉄道に乗り換えて終点の昭和で下車すると目指すクラウスに会える。必然的に留萌鉄道にも乗車でき、私鉄訪問も同時に果たすことができる。
テレビドラマの撮影地として知られるようになった恵比島駅で待ち受けていたのは、キハ1001だった(写真1)。湘南スタイルの前面にはヘソライトがあり、台車と連動してカーブに合わせて進行先を照らす仕組みになっている。タイホンも合わせて4つ目玉の様相である。留萌鉄道には同タイプのほか、キハ22と同一設計のキハもあり、5両のDCが在籍していたが、廃止後は全車が茨城交通に転じている。石炭列車はDD202の牽引で、石炭に由来のある鉄道ながら、最初から本線用に蒸機は在籍していなかった。また途中の駅にはかつて使用されていた木造客車がまだ留置されていた。
終点の昭和から歩くこと数分でクラウスが入換に励む昭和鉱があった。この時点で15号機は稼動しておらず、火の入っているのは17号機だけ。しかも、出炭量が減ったのか、午前中は動かず庫に入ったまま。聞くと12時過ぎからしか動かないと言う。ところが戻りの列車は12時10分発、これではせっかく来た甲斐がない。
機関士と掛け合って、早めに庫から引き出してもらい、転車台に乗せてもらうことに成功した(写真2)。古さを感じさせない磨き抜かれたクラウスは、携わる人たちの愛情が伝わるような美しさだった。撮影が終わるまで転車台に乗せたまま待ってもらい、現役最古の蒸機と言われるクラウスの優美なスタイルを堪能することができた。
この2両、明治22年、九州鉄道の創業とともに、7両の僚機とともにドイツからやってきた。明治40年の国有化後は、10形となり、国鉄廃車後、15・17は、東横電鉄の建設工事に従事、昭和6年からは2両とも昭和鉱へという流転の人生をたどっている。同形式の1両26号機は大分交通宇佐線でも使われ、現在も宇佐神宮で保存されている。
訪問から8ヵ月後の昭和44年4月、昭和鉱が突然閉山されてしまった。クラウスはもちろん、留萌鉄道までもが廃止(正式には休止)されてしまい、小さいながらも炭住街を形成していた昭和の街も霧散し、無人のゴーストタウンと化したという。
2両のクラウスも、廃止後、大井川鉄道へ貸し出されたり、大阪万博へ出品されたり、果てはデパートのオークションに掛けられたりと、現役時代以上に数奇な運命をたどり、「クラウス」という言葉が一時独り歩きしたこともあった。いまは、15号機が地元の沼田町、17号機が遠野市に安住の地を得て大事に保存されているという。
【写真1 キハ1001.jpg : 306.7KB】
【写真2 昭和鉱クラウス .jpg : 471.8KB】
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