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20年ばかり前の話だが、関西鉄道研究会では年2回の例会をやろうとゆうことになった。
だれか1時間ばかり話をして情報交換の場とすることでプログラムは決まった。その2回目の時、乙訓の老人にやれと藤井編集長から連絡が入った。乙訓へ転居してからは鉄道趣味界の人々とは没交渉に近い生活を送っており、旦那を中心としたDRFCメンバーとのみ旧交を温めていたのであった。そのころ取り付かれていたのはアメリカ・インターバンの世界で、特に貨物運輸の探求であった。郵便事業とのかかわり、カタログ販売の始まり、宅配、牛乳の集荷と配達など、日常生活に密着したものが中小都市では電車中心に展開されているのを知り、文献を通じてのめり込んでいった。
これを手近な京阪電車の貨物電車中心に話せば、新しい話題が提供できるのではないかと考えた。反響はあった。不惑を超えた年代の方々は、自身の見聞を話して下さった。乙訓の老人には初耳のものが次々と披露された。日本でも活発な時期もあったのである。締めくくりを亀井一男さんがなさったのだが、「同志社にはゲテモノ好きが居りますな」とポロリとおっしゃった。乙訓の老人は反発しなかったし、追求もしなかった。
須磨の大人が書き込んでくれた20世紀初頭の報道コピーを前に乙訓の出番だと言っているが、年令が団塊族以下の会員はどう感じたか、それが知りたい。技術の進歩は新しいデザインを呼び込み時代の要望に応えている。元JRの社員だと言っているオッサン、茶化すにも程がある。ゲテモノは進化の過程で誕生するのである。これ以上の演説はやめ。
【写真説明】
1999年1月11日、「18切符」で京を出た。雪よふれふれ、長靴姿であった。鶴君が紹介した柏崎付近の海岸べりは浪の華が立ち壮烈であった。翌日、新潟交通へ行ったが、鉄チャン多数で、直ちに五泉へと向かった。新潟市内からシャーベット状、その夕には高崎に移動。13日朝から上信、上毛を訪問。東京出張の時に立ち寄ってから以来だから37年ぶりだ。今回添付の101、104と同型の合造車やまるごと貨物電車があったように思う。東武からの中古車の塗装は3種類だった。井の頭線の電車は昼寝していた。14日午後には鎌倉の旦那と高岡君で乾杯していた。泊まりは橋本の高校同級生宅。翌日リフォームの図を画き、午後には京へ。この友人は今、普通列車の旅に凝っている。
【保存車101-s.jpg : 343.5KB】
【廃車予定104-s.jpg : 385.3KB】
【標準色-s.jpg : 371.4KB】
【アンパンマン電車-s.jpg : 374.7KB】
【認可待ち-s.jpg : 378.5KB】
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