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1960年3月=当時3年から4年になる春休み=48年前のハナシである。3月16日草軽電鉄を皮切りに、17日秋保電鉄、仙北鉄道、18日花巻電鉄を撮りながら北海道入り。寿都、羽幌炭鉱、天塩、美唄、夕張、雄別、釧路臨港、鶴居村、定山渓、北炭真谷地、三菱大夕張、夕張、留萌と各鉄道、簡易軌道などを訪ね歩いた。
3月28日南新得で北海道拓殖鉄道8622が逆向きで曳く混合列車を撮影。新得から反対向けに折り返して狩勝信号場で下車。メモも記憶も全くないが、当時の時刻表で見ると新得発10時28分の釧路発滝川行434列車だったと思われる。その前は7時30分、その後だと14時02分までないからである。
それも貨車を併結した混合列車だった。後部に補機をつけ、右に左にと忙しく曲がりながら25‰勾配を懸命に上って行く。この日は絶好も絶好の快晴で空気は乾燥し、新島襄(単独行だからこの時点福沢諭吉の助力はない)が前途有望な若者の日頃の善行を心から愛で、意気投合し強力してくれたと思われる。
小生この時の旅姿は、足元こそゴム長だが荷物は小さなショルダーバッグがただ1個。中にカメラとフイルム、時刻表(当時のB6版は携帯に至極便利だった)、入浴セット、歯ブラシ、若干の着替えと靴下ぐらい。この時は特にコッペパンが少し入っていたと思う。最低限度もいいとこで、何一つ欠けてもたちまち困窮すること必定。
こんな軽装で冬場3週間(帰宅は4月6日)が過せたのは、郵便局止め小包である。出発前に札幌中央郵便局止で自分宛小包=フイルム、着替え、ゴム長=を送っておく。札幌で小包を受取り包み紙を裏返し、要洗濯の肌着、撮影済フィルム、ここまで履いてきた靴を包んで自宅に返送。ゴム長姿で颯爽と雪の中へ。
新得から狩勝信号場へは途中新内駅があるが、これとて信号場同然。狩勝も人家は鉄道宿舎のみだが、なぜか時刻表にも掲載されている。434レ狩勝到着は11時09分で、貨物列車と離合した。普段は駅員以外人気のないが、この日は何人かがおり、保線区員だったか。
狩勝峠は名前の通り、石狩国と十勝国との大分水嶺で、ご存知我国鉄道三景のひとつ。根室本線が落合、新得の両側から上り詰めた挙句、狩勝信号場の西端で953mの狩勝随道で抜ける。真っ暗でも歩いて抜ければ時間的には最も早いが、この時は雪も固く、さしたることもなさそうなので、電柱と電線を頼りに、余り高くないその上を越そうと歩き出した。
当時大動脈たる1級国道38号線は冬場完全に交通途絶中で、国鉄が唯一の移動手段である。天気はいいし、寒くもない。ゴム長で適当に段切をしながら、石狩側は汗こそかいたがさしたる苦労もなく頂上へ。語るも涙の物語はこのすぐ後、十勝側に入ってからである。
【狩勝峠目指し1.jpg : 196.4KB】
【狩勝峠目指し2.jpg : 198.6KB】
【狩勝峠目指し3.jpg : 197.3KB】
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【狩勝信号場.jpg : 198.4KB】
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