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法勝寺線について藤本さんの投稿を読んで驚いた。特派員も一度だけ法勝寺線を訪れているのだが、記事を見ると極めて近い日なのである。当時、藤本さんは大学生であったが、特派員はまだ高校3年生、もちろん2人の関係はデキておらず、赤の他人であったが、米子のようなところでニアミスしていたのである。
米子市駅には、その当時ですら珍しかった木造車が構内にゴロゴロしていた。山陰には不似合いな、やけに明るい塗色の電車であった。法勝寺線訪問は、米子市駅だけで終わり、そのあとは、もっぱら興味の対象であった国鉄に向かい、米子機関区、木次線を訪れている。
特派員の米子での思い出といえば、そこから遡ること3年前、昭和39年に訪れた山陰本線も印象的だった。その年の7月、山陰地方は集中豪雨に見舞われ、山陰本線は百数十箇所に渡って鉄橋流出や土砂崩れが発生した。いまと違って、防災に対する備えも脆弱なものがあったのだろう、1ヵ月以上も不通が続いたが、8月10日ごろようやく開通した。その直後に山陰地方を訪れたのである。
復旧はしたものの、徐行区間が続き、無ダイヤ状態が続いている。朝、玉造温泉から大社に向けて乗ろうと予定していた普通列車も大幅な遅れである。やむを得ず、まもなく来るという大阪発大社行の夜行の臨時準急「伯耆」に急遽乗ることになった。夜行といっても先頭にロザが1両、あとはすべてハザ、それも32系ばかりの編成であった。
その先頭に立っていたのが、米子区の名機、C5180だったのである。「鉄道ファン」の30号にカラー見開きで大きく紹介された、化粧煙突、スポーク動輪の原型C51である。今まで、梅小路機関区のパイプ煙突のC51を見慣れた目には、まぶしいぐらいの完璧なC51だった。
列車は、水害の爪痕が至るところに残る区間を、徐行を繰り返しながら、大社までの約1時間余りを進んで行った。列車がカーブに差し掛かると、窓から身を乗り出して、スポーク動輪が激しく回転する様を写真に収めた。
当時は、まだ中学の3年生、それこそ紅顔の少年であった。ハーフサイズのカメラで写した、中学生の写真は、見るべき内容ではもちろんないが、鉄道写真の揺籃時代の記念すべき写真であり、憧れの原型C51との邂逅は、後にも先にもこの1時間余りだけだった。
【玉造温泉駅に到着したC5180.jpg : 46.4KB】
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