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【769】の写真で意欲を燃やした老人のあれこれを少し披露しよう。
琴参電車は1922(大正11)年10月22日に、丸亀・堀端〜善通寺駅前間を軌道法により開通した。この時の車両はデハヨ形5両であった。【769】の16号が同型である。
車両番号は謎に包まれている。会社の公式書類(形式図)では11〜15となっているのだが、竣工年月は大正11年11月となっていた。竣工日より開通が早いとは、こりゃなんじゃいなとなったのは当然のことである。翌年8月5日には善通寺〜琴平間が開通、港町から金毘羅さんへのルートが出来た。このルートなのだが、大変な大廻りなのである。常識で考えられるのは善通寺駅前からそのまま南下すればよいのに、駅前より一つ北の停留所・吉田(後の車庫前)から西へ善通寺赤門筋へ向かい、ここで左折して南下の上、町はずれで国鉄線西側に寄り添うというルートをとっている。
この理由は二つある。一は国鉄線と完全平行線が認められなかった軌道法による。二は善通寺町が軍都であったからだ。一は仕方がないとしても、駅前から西へ向かえば折角建設した吉田〜駅前間を廃線とせずともと思われるのだが、駅前から南西方向に善通寺師団の厩舎と練兵場があった。電車の騒音で馬に影響を与える恐れがあるから、駅前の片原町通りはまかりならぬとなった。結果として2つ北の本郷通りを拡幅して、西へ向かうことになった。善通寺の大門正面に通じる道筋ではないにしても、少し南寄に赤門筋商店街が出来、現在に至っている。
琴平への延長開業日は1923年8月5日で、やはり軌道法によっている。この時の増備車は6〜9号の4両である。ここでまたもや「はて?」となる。最初に走り出したのが11〜15号で、増備車の車号が若いのは如何なることか。この理由を車庫で問い質したのだが、「なにか不都合なことがあったらしい」との返事が得られたのみであった。勘ぐるに、最初に届け出た1〜5号に不備な点があり、大幅な修正(改造)を行い再届けをした時に、車号を最初に届け出たものと区別したのであろうと、思われる。これで11〜15号が開業日より後で竣工したことになっていたのが理解できると思う。和久田康雄氏の調査では、これら9両の竣工届けは1923年4月1日に一括して出ているとなっているが、これについては分からない。デハヨは1924年1月、さらに3両(16〜18)増備されている。
琴平延長に続くは多度津へ。善通寺赤門から北へ鶴橋までの開通は1924年10月9日。港近くの桟橋通への延長開業は1925年2月26日。この多度津線は地方鉄道法によっている。増備車5両(19〜23)は同型ながら地方鉄道法による届出となった。その翌年、またもや5両増備(24〜28)。これは軌道法による届出となった。この5両は前面のスタイルが23号までと異なっているのは写真を比較すれば分かると思う。老人はデハヨ形については、27号しか見ていない。
以上、【769】について思うことを披露に及んだ。
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