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【742】、【746】でどえらいものが出てきた。琴電に関しては【742】の14号が超貴重品だと「その15」で紹介した。と共に琴急の1型も貴重品である。こんなに鮮明なものに始めて御目にかかった。感激している。撮影は坂出駅と断定できる。琴急については、1954年に琴電琴平駅で2000形を撮り、榎井の方に歩き出し土讃線ガード下を潜る時、複線構造になっているのに気づき「ひょっとして琴急の線路敷ではないかと」と思った。金谷川べりに出てみるとコンクリートの橋脚が2本、川中に突っ立ていた。その先を確かめようとするより琴電の方が気になり、先を急いだ。
翌年、国土地理院「丸亀」を手にし、麦藁帽を被って琴急のルート探検に出で立った。猛烈な陽照の中、田圃の中に残る小川や畦の水路にある橋桁を一つ一つ追った。琴平から東北方向、飯野山に向けまっしぐらである。土器川築堤を前に、ばててしまった。小川に足を浸してぼんやりしていたら、田圃で草取りをしていたおばさんが「さっきからなにをしているの」と声をかけてくれた。「かくかくしかじか」。驚くと共に「おやつにするから家にいらっしゃい」。そこで西瓜をご馳走になった。広縁でしばらく昼寝をさせてもらい、陽が傾く頃に善通寺に向けトボトボと帰路に着いた。
次いで坂出方面である。国鉄駅南側、駅西の踏切を渡った所が琴参の乗り場、その奥に倉庫らしきものあり。周りは完全に整地されており草ボウボウ、で駅跡とは感じられない。しばらく歩いて右へ回り込むような畦道がある。こいつだなと思い歩くうち学校の裏に出た。そこから小さな橋桁をみつけたが、やはり飯野山を目掛けている。これでだいたい見当がついたので、ばてる前に歩くのはやめた。
瀬戸大橋線開通のG.W.に金谷川畔へ行ってみたら、橋脚は撤去作業中であった。琴急琴平駅跡の琴平郵便局は健在であった。坂出駅高架工事中の現場を訪ねたのは7〜8年後。琴急、琴参駅跡は資材置き場となっていた。
琴急1形6両は、1944年戦時不要鉄道として線路をめくられた後、名古屋鉄道に送られた。これを知ったのはTMS46号の記事であった。大人は同志社入学決定で四国に渡ったのだが、老人は洛北高校卒業なのに、学割証で東京電車見物に出かけた。最終夜行で名古屋へ。夜明けとともに揖斐線へ急いだ。黒野へ琴急1形(名鉄モ180形)に乗り、宿願をはたすことが出来た。老人のピンボケ写真でなく、鹿島雅美氏に頂いた1960年撮影(P44)のものを紹介しよう。そして弘津君が良く似ていると言っている熊本電鉄71号(P45)も。1957年9月、老人の撮影である。1989年に熊電にいったら、別番号のものが北熊本車庫の牽引車として残っており、懐かしくて暫く眺めたものである。
10年前、岐阜市内線と揖斐線を直通運転するための780形が登場した時、探検隊の一員である堀さんと行をともにした。「おきさんの喜ぶものがあるよ」と言って名鉄岐阜工場に連れていってくれた。工場東南隅に鎮座していたのは、なんと180形の達磨さんであった。
(P46)後に解体され、市内線終焉の時にはなかった。
【変44.gif : 280.5KB】
【変45.gif : 274.4KB】
【変46.gif : 207.4KB】
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