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【679】半世紀前の富山港線 ボケかけの年金生活者 06/11/11(土) 14:43 [添付][添付][添付]
【685】Re:半世紀前の富山港線 弘津興太郎 06/11/15(水) 15:20

【679】半世紀前の富山港線
 ボケかけの年金生活者  - 06/11/11(土) 14:43 -
  
このところ富山のライトレールの書き込みがこの欄を賑わせておる。結構なことじゃ。実は7月にわしも乗ってきた。

国鉄富山港線は元来富山−岩瀬浜を結ぶ富岩鉄道で、1924年7月23日開業。このときは富山口−岩瀬浜4マイル58チェーンであったそうな。
のち富山電気鉄道に譲渡され、1943年1月1日富山地方鉄道が発足。そのすぐ後6月1日に買収され、国鉄富山港線になった、と古老は申しよる。

ボケかけ年金生活者が初めて富山港線を見たのは確か1953年3月であったと思うんじゃが、何分記憶が薄れて定かでない。ただ電車の番号が社時代を引きずった1〜3桁なのは、確か買収国電の改番整理が1953年6月で、以後4桁に統一されたはずじゃから、まあ正しいのじゃろうて。そうそう、阪和だけはモハ20台と、素性正しい国電の仲間入りをしたんじゃったな。

最初の2枚はセミボ20+21。セミボとは、セミスチールのボギーを意味するぐらいは皆の衆もご存知じゃろ。のち静岡鉄道に売られていったように記憶するが。
これは富岩鉄道生え抜き車両で、木造5枚窓のボ1、2もいたんじゃが、この時点富山地方鉄道が購入して除雪車代わりに使われておった。

2コマ目は改番後で、デハ101、デハ200。

3コマ目は6枚も欲張っているが、架線の下を走るC11263をごろうじろ。
これが富山港線―すっかり家が建て込んだ現在の富山ライトレールと同じ場所とは俄かには信じられまいて。当の本人もこんな写真があったのをすっかり失念しておった。

電車は左上からモハ2020、モハ1310、モハ2326。
右下はED251。富岩生え抜きのED261も居ったぞ。

電車はいずれも戦時中の買収国電で、伊那や宇部、宮城など、各地からの寄せ集めじゃった。乙訓のご老人の縄張りを侵すのは不本意じゃから、ここでは氏素性や払下後の行き先なんぞの講釈は止めておく。乙訓のご老人よ。お忙しいとは思うが、若い(といってもみんないい歳こいだおっさんやおじん予備軍ばかりじゃが)衆に説明してやっておくれんかな、もし。

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【富山港線1.jpg : 171.3KB】

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【富山港線2.jpg : 179.2KB】

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【685】Re:半世紀前の富山港線
 弘津興太郎 WEB  - 06/11/15(水) 15:20 -
  
>電車は左上からモハ2020、モハ1310、モハ2326。
>右下はED251。富岩生え抜きのED261も居ったぞ。

長老さんが暫く出て来られないので、関心ある者として補足します。
2020は元南武の500型、省電モハ1の鋼改車なので制御機器は国鉄系です。
1310は宇部のモハ33、僚車は日立電鉄などに行きました。
2326は宮城(仙石線)のモハ801型?でしょうか。
窓の大きい好ましいスタイルの中型車ですが、国鉄に留まり払下げ期には
地方私鉄の戦後復興が一段落したあとだったせいか、貰い手がなく早期に
姿を消したことは、電車ファンにとっても残念な史実のうちの1つです。

電機のED25は宇部から電車と一緒に来富、元からいたED26とは
台車をのぞいて車体はそっくりです。
その理由は26はボールドウイン&ウエスチングハウス製なのですが
25の製造所である日鉄自動車(のちの東洋工機)で車体を改造したからです。
この後、25は上田交通に、26は越後交通長岡線で人生を全うします。
それにしても僕はこれを読むまでED25と26が一時同じ職場で働いていた
とは知りませんでした。鉄道ファンとして好きなエピソードがまた1つ
増えました。投稿氏に感謝します。

富岩鉄道時代の小型正面5枚窓車たちについては、詳しく知りません。
静岡鉄道と岳南に何輛か流れたことは分かっていますが小型過ぎた
ゆえか早期に姿を消しました。受け入れ先が野上や熊電、琴電の
志度線あたりだったらもう少し幸せな人生が、さらに国鉄買収という
人の運命を狂わせるようなことがなければ、第2次大戦というものは
鉄道史を研究するものにとっても、実に大きな課題をいまも残して
います。
なお岳南時代の晩年の姿が下記の掲示板の下の方に貼られています。
カラー写真は珍しいと思います。関心のある方はご覧ください。
以上。
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