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1985年にホテル京阪・京都でDRFC・OB会があった。大西顧問の引退謝恩会であった。この席で吉谷先輩と隣合わせとなったのだが、「沖中はん、はよう鉄ちゃんに戻りなはれ」
とけしかけられた。その気にはなっていたのだが、地域活動のまとめをしていた事もあり「へえ、そないしまっさ」と返事をする事はできなかった。その年の晩秋、おっさんは逝ってしまった。翌年梅雨時、おっさんの遺言に従い海外鉄研に入会。ここで今道くんと出会い、今日に至っている。海外鉄研の仲間の手引きでJTSに入会した。JTSには四方君が居ると言うので楽しみにしていたが、退会した後で残念だった。その後、今村君が在籍しており挨拶を受けたときは心強く思った。
これからが本文です。
マイテの企画を今道君が持ち込み、実現するやDRFCの名は天下に轟いた。勤務先でも知られるところとなり、あの年の忘年会では阪和線で終戦直後、線路工夫をしていたという職人が話題にしてくれた。その時、滋賀県下担当の後輩が「沖中さん、草津線寺庄駅前の滋賀交通営業所に変なものがありますよ。」ときりだした。聞けばバスの廃車体だ。これはおもろそうだ、春になったらいてこましてやれと思った。
翌春4月の日曜日、寺庄駅から歩く事2,3分、倒壊寸前の木造車庫(実はタクシーの車庫)裏と営業所北側空き地の2箇所に変なものが安置されていた。車庫裏に2台、空き地に3台あった。車庫裏の1台(P13)は側面窓5.5ケ、トヨタBM、いすずBX90か91クラスのシャーシーのもの。もう1台(P14)が懐かしい北村のボディ。中学校修学旅行で羽田空港へのはとバスで乗った時のものだ。関西ではあまり見る事のない後部窓が印象的だ。そして空き地の方だが(P15)、右のBX95のシャーシーのものは真横から撮れたが、左の後ろのものはわからない。そこで営業所の2階から撮らせて貰ったのだが、更に奥の蔦かずらの下にも1台ある。会社の方に河原に出たら撮れそうですねと言ったら、蝮がいるから止めた方が良いと言われて断念した。観察するに戦前型の側面窓4ケの物の様だった。
この時の事を滋賀交通勤務のJTS会員W君に話したら、「あれですか、一番小型の物はうちの社長が近鉄(近江鉄道)バスに若い頃はねられ、その補償の一つに貰って水口地区で会社を興した時の記念品だと聞いてます。未だありましたか。」と、びっくりしよった。そして「うちの社長は廃車にした物を形式別に残すのが好きで、甲西駅下り方踏切脇の空地にずらりと並べて、喜んでいる変わり者ですわ。」「そう言いや山科の西野小学校南の空地に、あんたとこの古いFUSOの観光バスが1台ほったらかしにしてあるなあ。」「あれ京都へ出てきた時の記念品ですわ。水口営業所の路線バスにFUSOの古いのがまだ残ってます。1時間に一回、草津まで出て行きよりまっせ。」
この話を聞いた変なおじさんは後日、草津から水口までオンボロFUSOに乗って、営業所で撮影させて貰った。クローバー会にはバスマニアもいる事は知られている。老人が現役の頃の筆頭は小川武志君であった。亡くなった羽村兄もその一人であった。老人もそうでで各地へ出向いた折、気が向けば路線バスにフィルム消化の為カメラを向けている。因みに寺庄、山科の記念品はある日、忽然と消え今はない。
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