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【510】サンパチ豪雪中横断記その8 湯口 徹 06/3/10(金) 15:07 [添付][添付][添付]

【510】サンパチ豪雪中横断記その8
 湯口 徹  - 06/3/10(金) 15:07 -
  
読者諸兄(約○名)から続きを催促され、止むを得ず超連続投稿となってしまった。先ずは重澤旦那の記憶とすり合わせ修正および消えていた脳中メモリーの復元と補足のため、多少話が前後する。併せご寛容を。
旦那の記憶では511レが武生で長時間立往生中、バッテリーが消耗した客車に駅員がヨレヨレの電線と裸電球を車内に引き込んでいた由。車軸発電機が凍り付いていたと見える。また某氏から511レは何箇所か脱線していたのに、そのまま大阪に引き返せたのかとのご指摘も。脱線と云ってもレール踏面に雪が硬く盛り上がって車輪が浮いた状態で、雪さえ除けば復元は容易だが、台車全体を掘り出し、除去した雪のやり場に困窮したようだ。今庄駅前ロータリー?は雪の山で、「この下に数台の自動車が埋まっているから、ブルドーザーは頼むから入らないで」の意味の哀願調立て札もあった。さらに投宿した旅籠は当初「食事もろくに出来ないから」と渋り、間髪を入れず「件の」キャベツを1個差し出すと、とたんに親父の態度が変わり「大したものは出せないが」と了承。その晩めしは焼き飯だったか、ラーメンだったかは2人の記憶が一致しないが、野菜の逼迫は深刻であった。さらに翌28日のEF、ED70の3連にスエかオエか(井原氏よ、写真から判定乞う)の70系救援車を挟んだ列車は、やはりどこかでの脱線の救援に駆けつける途上らしい。以上補足を終わり、以下本編に復帰する。お待ちどう様。
旧陸軍の行軍はフル軍装で1時間1里(3.927km)、のち4kmを45〜50分ぐらいで歩き、10〜15分休憩。強行軍だと1時間5kmぐらい、休憩なしに数時間以上歩いたそうである。今庄―武生はたったの15.9kmで、雪が無ければ4時間だが、オーバーシューズを穿っていたとはいえ、少なくとも7〜8時間以上は要したようだ。途中写真が一切無いから、列車も運行を中断しており、だからこそ湯尾の駅長も「気をつけて」と送り出してくれたと思われる。
薄暗くなって武生に到着。双六なら「振出に戻る」である。「半日山のなかを馳けあるいて、漸く下りて見たら元の所へなんて、全体何てえ間抜だらう」との「二百十日」(夏目漱石)の碌さんの台詞も思い出した。現在の国道8号線は武生の東方をバイパスで通っているが、当時は町のド真ん中を北に抜けていた。駅近くに砺波運輸の基地があり、ここからトラックに便乗しようではないかと衆議=二議一決。早速重澤旦那が無類の危機管理能力か、有事の生命力を発揮し、1台の金沢行きトラックの運転手に話を付けてきた。まだ若い助手と共に、一刻も早く金沢の自宅に戻りたい由で、積荷がナイロンの原綿?のため引火性があり、タバコとマッチの類は預からせてもらう。休憩時は返すという約定で、当然異議があるはずもない。腕章の効力発揮は確かだが、何としても富山まで行かねばならないのなら、困った時はお互い様という男気が本当に嬉しかった。
荷台は幌が厳重で風は入らないが、積荷と幌の天井とは1メートルも無く、這って歩く。道路は雪だらけの不陸(土木用語で、平らならざる状態)だらけ、10トン積ほどの大型トラックはまるで雪上車並みにゴトンドスンゴトンと前後左右斜めとあらゆる方向に大仰な浮沈を繰り返して亀の歩みである。
荷台に閉じ込められると全く外が見えず、ただ時間の経過を待つばかり。背中で荷物の上面を擦りまわっているような状態である。走っては止まり、止まっては揺れ、を何時間繰り返したか。
えらく停車が長いなと思うと、外から「お二人さんよー。しょんべんどうだー」「おー、頼むー」後尾の幌が開き、飛び降りて雪の山目掛け用を足す。タバコとマッチの一時的返却も受ける。雪は止んで星空が広がり、遠くに見える明かりは芦原温泉だという。えっ、まだそれだけしか来てないの。
トラックは何十台か百台以上かが車列をなし、建設省の複数のブルドーザーが除雪しながら先導しているらしい。走行可能幅はまさにトラック1台分で、反対側からの同様車列と鉢合わせすると大事になる。雪がどけられる広いところならいいが、街中や地形が掘割状だと大変で、ブルが何とかコンボイ同志が行き違えるスペースを作り上げるまで、双方とも数時間の立往生となる。
途中相客が1人増えた。中部日本放送のカメラマン(本物の)で、TVニュースのフィルモ(B&H社=米国製のやたら頑丈な16mm撮影機で3本ターレット、スプリングモーター駆動。小生も当時仕事で使っていたが、37万円=小生の月収の20倍以上)を抱えており、撮影済フィルムを送る手立てが無いとこぼしていた。
そうこうするうちに車列が動き出し、我々はタバコとマッチを預け荷台に復帰。真っ暗な荷台内で唯一の明かりであった旦那のランタン(単2×2)が点灯のまま大きなコモ包みの間に落ち、だんだん光が頼りなくなり、やがて消え、回収は不能だった。
こんな状態が夜2回、昼間1回延々と連続し、武生出発1月28日夕刻、金沢に着いたのは30日朝と記憶する。鉄道だと95.6kmで、蒸機牽引各停列車でも当時3時間程度。それが40時間程を要し、表定速度約3kmだから歩行同然だが、ともかく歩かずにすんだ。カメラマン氏はそれまでに降りていた。口数は少ないが親切で朴訥な運転手と運転助手(当時長距離トラックには助手が乗っていた)の2人に心から礼を述べ、各500円札1枚とキャベツ1個を呈上。2人とも「家にいい土産になる」とキャベツが嬉しかったようで、それを高く掲げてしばらく見送ってくれていた。有難う、金沢の礪波運輸運転手と助手さん。彼等も交代で休んだとしても、恐らくほとんど寝られていないはずである。
早速2人とも勤務先に「オオユキカエレヌガ ゲ ンキ スマヌ」、自宅にも電報を打つ。福岡(博多ではない。富山県で北陸本線沿線)在住の沖中氏には電話が通じた。金沢―富山間は辛うじて1日4〜5本の列車が走っていた。駅構内にはC57が曳く雪捨列車がおり、縦位置写真「雪の構内」はその年のピク誌コンテストで推薦に入った。当時ネガ提出はないから、主催者へは版権だけで著作権の移転も無いはずである。

添付画像
【C57雪捨て列車.jpg : 154.7KB】

添付画像
【雪捨て列車2.jpg : 150.5KB】

添付画像
【「雪の構内」縦jpg.jpg : 179.0KB】
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・名前 : C57雪捨て列車.jpg
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