|
20日午後のクローバー会幹事会をすませ、21日は掃除、洗濯を済ませ「玉手箱」の整理に潜り込んだ。DRFCの物品を預かって以来、整理が出来ていない。米子のパンフは目下、宇宙遊泳をしているようで出てこない。
1942年冬、母の故郷に向け山陰本線の夜行で出発した。「茶粥」の項で記した中国道・六日市ICの降りた地である。この時の前も、その次も山陽本線・呉線経由であった。益田経由、山口線に乗るためだとその後思った。それは祖母が津和野の病院に入院しており、その見舞いであった。
夜明けで、ふと目覚めた駅は雪に覆われていた。「べんとうー、べんとうー」の売り子の声で、母は曇った窓を開け一包み買ってくれたが、ふかし薩摩芋であった。広い駅で機関区もあり、きっと米子であったのであろう。冷えた芋は喉に詰まり、水筒の番茶で腹へ押し込んだことを今も覚えている。ガチャンと走り出してしばらくして、停まった駅の左窓から京都では見たこともない、小さな電車が停まっていた。この時、荒島駅から出ていた廣瀬鉄道だとは、知る由もない。
雪明かりの中の駅でしばらく待合室で、乗り継ぎの列車を待った。茶色の電車が見られたから、出雲今市だったのであろう。こんな旅で、法勝寺鉄道ことなどまったく知らずであった。(つづく)
|
|
|