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◎天神橋筋六丁目
通称“天六”である。現在は阪急千里線と大阪市交堺筋線が接続する地下駅となって、両社の電車がここから相互乗り入れする。駅の管理は市交側が行っており、駅ホームの内装や表示類もすべて市交スタイルになっている(写真1)。写真の電車は河原町まで直通していた「堺筋快速急行」。夕方3本のみの運転だったが、昨年3月の改正でこの長い種別も消え、「河原町」の行き先もなくなった。現在は準急茨木市行きとなっている。
地下鉄堺筋線ができる昭和44年までは、地上の阪急天神橋駅が終端駅だった。大正15年、新京阪鉄道によって造られた天神橋駅ビルは、日本で初めてのターミナルビルで、電車は高架の2階から出入りする画期的な建築だった。その駅が天神橋筋と都島通の交差部に天六阪急ビルとして今も残っている(写真2)。外部は改装されているものの、茶系の外装が当時の面影を残している。現在、1階は阪急系列のスーパーマーケットになって当時の面影はないが、2階へ回る階段などは駅があった当時のままだという。外部から見える遺構としては、ビルの北側に2階駐車場への入り口があり、かつての高架駅への進入路に当たる場所である(写真3)。
特派員には天神橋駅の思い出はない。団塊世代が“天六”と聞いて思い出すのは、昭和45年4月8日に起こった地下鉄谷町線の工事中に起こったガス爆発事故だろう。その前月から開催された大阪万博に浮かれ、桜も咲いて、世は昭和元禄の真っ只中。特派員も現役の3回生でわが世の春を謳歌していた。そんななか、地下鉄工事でガス管が損傷して大量のガスが洩れ、そこへ来たガス会社のパトロールカーから引火、大爆発が起こって多数の死傷者が出た。現在の谷町線ホームの東端当たりがその現場である。これが契機となって危険を伴うオープンカット工法は回避され、シールド工法が多用されることになる。
事故が起こったのが夕方6時前のことだった。家にカラーテレビが来てまもない頃だったと記憶している。テレビの画面に映し出される真っ赤な火柱がすさまじく、さすがはカラーテレビだと感心したものだ。
それから少し時代が下って、昭和50年には天六から野田阪神まで結んでいた阪神電鉄の軌道線、北大阪線が廃止された。大阪市電はすでに廃止されているのに、なぜこんなところに路面電車が生き続けていたのか不思議なくらいだった。廃止の間際は、何度も天六まで行き、歩いて中津、野田へと向かった。
当時の終着風景(写真4)と約30余年後の現在(写真5)を比較してみた。背後の天六ビルに大きな変化はないが、道路が拡幅され家並みが一変した。天六の西側地域は大阪には珍しい非戦災地域で、当時は古い家並みが残っていた。今行くと、取り壊されて拡幅されたうえ、すっかりビル街になっていた。鉄道も変わるが、街並みも変わって行くのである。
【写真1 天六ホーム.jpg : 124.7KB】
【写真2 現在の旧駅.jpg : 274.7KB】
【写真3 高架ホーム跡.jpg : 214.5KB】
【写真4 阪神軌道線.jpg : 167.6KB】
【写真5 上と同一地点.jpg : 326.0KB】
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