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渋谷で写したあと、高田馬場駅前へ来て、また都電を写している。この時期、都電第一次総合計画によって、加速度的に路線が廃止されていった。ひどいときには、1ヵ月おきに路線が廃止される具合で、一年間に延べ30〜50kmずつ廃止されていった。東京はよく東京オリンピックを契機に街並みが変わったと言われるが、特派員から見れば、それは都電が急激に縮小されていった昭和40年代前半ではないかと思っている。
蒸機ファンを自認する特派員もさすがに見過ごす訳にはいかず、早周りで都電撮影に一日を費やした。高田馬場駅前に来たのは、ここを始終発とする15系統が、渋谷と同じ約1ヵ月後に廃止予定のためと、狭軌であった杉並線の2000形が改軌のうえ同系統に使用されていると聞いたからである。しばらく待っていると目当ての2000形がやってきて、細面の車体をモノクロで撮影することができた。カラーで写したのは、最大世帯の3000形だった。数が多い分、外来の人間にとってはいかにも都電らしいスタイルに映る。
写していると、掃除をしていた寿司屋のオヤジが話しかけてきた。京都から都電を撮りに来たと言うと、ずいぶん驚いていたことが今も記憶に残っている。まだまだ都電にカメラを向ける人間は少なかった時代だったのだろう。このあと、早稲田まで歩いて写し、15系統の都電に乗って銀座四丁目まで行き、晴海通を通る最後の都電を写してから、東北へと旅立った。
【高田馬場駅前.jpg : 176.2KB】
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