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DRFCは長徳寺を忘れてはならない。先ごろ祇園長楽寺の話題で賑わったが、今日は長徳寺です。
真宗大谷派長徳寺。上京区西洞院通上長者町上ル。住職は円乗師(当時)、摂師(
現在)。 寺領約300坪、門をくぐると右手に厠と、歯のお墓(この墓は京都市内でも珍 しい。筆者の永久歯1本−下前歯、根元を含め長さ約20mm−もここに眠る)がある。左手に鐘楼(写真参照)。奥は中央に枯山水、右手が本堂、左手が庫裏。
こないだの話です。
この庫裏の2階の二部屋こそ好学の徒2名が起居した下宿部屋であった。1958年頃から、まず章元さんが、61年から64年まで筆者が、63年から65年までは名古屋の宗教家が部屋主であった。なお、この宗教家は浄土宗知恩院派でありながら、真宗の寺に下宿、通う学校がキリスト教と分けのわからぬ御仁でもあった。
下宿部屋は日々勉学に勤しむ者のみが入室を許される神聖なる6畳部屋である。部屋中央にボールを置くと、自然に窓側に転がっていくような、いささか古びた部屋でも、勉学以外の目的には、本来活用してはならない筈なのであった。
にもかかわらずである。DRFCの連中はお寺、下宿生など関係者に一切の断りも無く活用と利用を行ったのである。下宿代の一端を補完するでもなく、寺社への寄進行為も一切無くである。しかも時間無制限に。1時間目が休講だといっては、下宿生をたたき起こして押し入った岩波君。下宿生が勉学中で不在でも勝手に上りこむ、深夜お引取りを願ってもなかなかお帰りにならない連中が占拠していたのである。よくもお寺が文句を言わなかったものである。ただの1回の文句も聞いたことはない。本当にありがたいことであった。階段下の靴の数といったら、とっくに寺社関係者の人数を凌ぐ。
青信号の11号に始まり、多分15,16号くらいまでは、編集室兼印刷工場でもあった。4級スーパーラジオの中継する日本シリーズを聞きながら手動で印刷したものである。休憩時には下宿生の粋な計らいで、ネスカフェのインスタントコーヒーが戴けたのである。それでもDRFCからの感謝の意は未だ聞いていない。
下宿生の発端は、現在安城市に在住の章元さんである。二代目が筆者、三代目が名古屋の坊主兼教育者の哲彦さんである。DRFCでない四代目も居た。三代目は、浄土宗知恩院派でありながら、真宗の寺に下宿、通う学校がキリスト系と訳のわからぬ坊主ではあった。
DRFCの連中と、お寺で一番顔見知りだったのは、おばさんである。今も健在であり、毎年正月に電話で歓談する。'08年の正月も電話を掛けてていただいた。とても元気で、声も話し方も当時と全く変わらない。いつも決まって出る話は、『章ちゃんは元気ですか、魚住さんは?』である。それは良いとして次に出るのが『卵やの吉田はんはどないしてはる?』である。断っておくが吉田君は、下宿生ではない。ただひたすらに入りびったっていただけである。にもかかわらずおばさんの脳裏に焼きついているのだ。当時から個性の強烈な人だったのでしょうね。
世の中様変わりだらけですが、お寺のおばさんのように今も変わらぬ人もちゃんといらっしゃるのですね。筆者のお爺さんはどうでしょうか。女子高生から若さの素を頂いてはいますが、もうすぐ70歳です。
あれからもうすぐ50年、半世紀近くが経ちました。
写真は、上から順に、
1.長徳寺門前、真宗大谷派長徳寺の札が見える
2.本堂前の廊下で日向ぼっこ
(左から)吉田君、筆者鶴、亀田君
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