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【1473】で893−2さん、【1485】でH.K.生さんから阪和線の話題が出たところで少し前の羽衣支線を紹介してみたい。
893−2さんは、H.K.生さんも言われておられる通り、阪和線の旧形国電をよくカラーで記録に残されたと思う。ちなみに一番下の写真はクハ55065、その前はクモハ60151、153、155、157のいずれかである。
昭和45年4月に大阪市内の会社に就職し、昭和52年3月まで京都〜大阪間を国鉄で通勤したが、休日には通勤定期でよく阪和線、片町線の撮影に出掛けた。昼前に家を出て京都駅と大阪駅で適当に撮影して阪和線へ、夕方16時頃に住道に移動して折返し電車を撮影して帰るというパターンが多かった。僅かな乗越し運賃で1日中楽しめ、これが最も健全で充実した休日の過し方だと思っていた。昭和50年代に入ると旧形国電は全国的に急速に姿を消し、それが原因で鉄道趣味から次第に足が遠のき、それ以降半分休眠状態が続いている。
関西の旧形国電は通勤でお世話になったこともあり、数え切れないほどの思い出があり、いづれ自分でHPを作ったときに紹介しようと思っていたが、時間と能力を考えると何時のことか判らない。
1.クハ55072+クモハ20052 昭和42年5月28日
クハ55072は昭和15年7月川崎車両製で元々関西の車である。当時の阪和線でノーシル・ノーヘッダーのクハ55は、072と892−2さんが撮影されている065と2両のみで、065には「急行板挿し」が残っており判別は容易であった。後ろのクモハ20052は元阪和電鉄モヨ104で、昭和4年川崎車両製である。
2.クハ79306+モハ72+クモハ60121 昭和48年3月18日
クハ79306は昭和28年1月東急車輛製、昭和43年3月阪和形置換時に松戸から転入した。
3.クモハ60157 昭和52年4月10日
前身は昭和8年2月16日の城東線電車運転開始時に、同年1月モハ41011として誕生、昭和26年吹田工場で更新修繕、27年から28年にかけてモーターを128kwのものに取替えた。41の出力強化車は、昭和28年6月の改番でモハ60150番台となり、151〜157の奇数のみ4両在籍した。
4.クモハ73181 昭和47年5月7日
モハ63509として昭和22年12月に誕生、昭和27年11月の整備改造でモハ73181となった。阪和形置換時昭和42年4月に東神奈川から転入した。
5.クモハ73613 昭和47年12月10日
モハ72585として昭和29年8月日車支店で誕生、昭和43年3月鷹取工場で運転台を設置して現車号となった。阪和線には605、611、613、619、621、623の6両在籍した。方向幕を持ち必要な行先はすべて網羅されていたが、何故か使用されず行先板を使用した。この辺の事情は、京都〜西明石間の緩行の103系の方向幕が冷房改造と同時に電動化されるまで、行先を出さず常に「普通」を出していた件、旧形は乗客からの苦情を無視して行先板を外してしまった件を含め、複雑な問題が存在していたらしい。
【クハ55072羽衣線.jpg : 58.3KB】
【クハ79306(羽衣線).jpg : 73.1KB】
【クモハ60151(羽衣).jpg : 89.4KB】
【クモハ73181(羽衣).jpg : 110.5KB】
【クモハ73613(羽衣).jpg : 84.9KB】
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