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乙訓老人は敷物や建築内装・営繕等が本職で、長年の付き合いで見識のやたら広いことはかねがね承知してはいたが、土木治水にまでも薀蓄が深いことが分かった。なんとも幅・奥行の豊かな御仁である。
かつての我国は道路といえば地平で、河川堤防(専門語では堤塘というらしい)の横断や取付以外築堤とは無縁に近かったが、明治以降鉄道築堤が出現し、これが洪水時溢水をせき止める水害の原因となった事例が少なくない。
例えば紀勢西線御坊駅は実は御坊町を避け、北側に接した湯川村の、それも全く何もない場所に設置された。これは周知のように地域と支持政党が絡んだ政争の余波で、国鉄はわざわざ人口が多くこの地域の中心地である御坊町をぐるりと迂回し、「我田引鉄」の好例にされる。
元来低地である湯川村は、常識的な熊野街道沿いだと溢水時鉄道築堤(と言うほど高くなく、せいぜい土盛程度だが)が水を堰き止め、被害を倍増し、かつ一方的に自村に及ぶと言い立てて、結局御坊駅を自村内にむしりとるのに成功した。
政争がからんだ鉄道争奪戦に敗れた御坊町の有力者が結束し、自前で御坊臨港鉄道を建設し紀勢西線と繋いだのだが、当然仲の悪い湯川村が用地取得に協力しなかった。小作人組合とも紛糾し、土地収用法のご厄介になったため、開業は紀勢西線が御坊(その実湯川村)に伸びた2年以上後になった、と言う話。
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