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【1511】で湯口先輩より、昭和30年7月に京都駅で撮影された「マニM3206」の画像が公開されたが、昭和40年代になっても接収中の「マニM3200番台」が見られた。最後の接収車が返還されたのは、何と昭和45年1月1日のことである。
最後の接収車とは次の4両である。
マニ3118(昭和7年大阪鉄工所)軍番号M3203
マニ3223(昭和16年汽車会社)軍番号M3212
マニ322 (昭和15年汽車会社)軍番号M3217
マニ3138(昭和10年汽車会社)軍番号M3221
軍番号でお判りいただけると思うが、締切郵便車として使用され、接収解除後は、4両揃って昭和45年2月26日付で廃車された。
マハ29について
【1451】で米手作一様、【1455】で総本家青信号編集部様がマハ29について書き込みされておられるが、確かに昭和30年代、37年頃まで京都駅でマハ29をよく見かけた。昭和33年10月の配置表を見ると大キトに70〜74・76の6両が配置されている。米手作一様は草津線列車、総本家青信号編集部様は鳥羽快速の京都〜姫路間増結車で見られておられるが、私は京都〜名古屋間の普通列車422レ、423レでよく見かけた。
中学2年の夏休み、林間学校で妙高登山の帰り、田口(現妙高高原)から夕方の普通列車で長野に出て駅前の「池文」という旅館で夕食後、夜行の準急「きそ」に乗り、翌朝5時頃名古屋に到着した。当時の時刻表が手許にないが、6時頃発の京都行422レは前方がスハ32、後方がマハ29で、背摺り板座席は嫌ということでスハ32に乗ったこと、車掌が検札に来た時、隣に座っていたおじさんが、大垣〜京都間の通勤定期を見せていたことを記憶している。
総本家青信号編集部様が乗車された鳥羽快速の京都〜姫路間増結車であるが、私が知る昭和40年前後はスハ37が使用されていた。スハ37も在籍4両で、しかも元スロ32とスロ33が2両ずつという珍しい車であるが、鋼体化客車と同じ背摺り板座席、定員は96名であった。
1.マニM3203 昭和40年11月4日
2.マニM3212 昭和39年5月3日
3.マニM3217 昭和41年4月8日
4.マハ2964 昭和39年8月16日 大分駅
大キトのマハ29は取り損ねたので分オイのものをお目にかける。元食堂車で昭和3年川崎車両製。スシ37700として誕生し、改番でスシ37、戦時改造でマハ47、昭和28年の改番でマハ29となった。
5.スハ38112 昭和40年3月22日 仙台駅
【1447】で米手作市様がマロネ37改造のマハ29について触れられておられるが、スロハ38格下げのスハ38の写真があったので併せてお目にかける。
【Mマニ3203.jpg : 87.3KB】
【Mマニ3212.jpg : 57.8KB】
【Mマニ3217.jpg : 69.4KB】
【マハ2964.jpg : 37.1KB】
【スハ38112.jpg : 33.2KB】
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