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【1468】こだま試運転でモハ20系が、須摩の大人から紹介された。この日に残しておいたネタだったが、慌て物の大人は先に掲載したため2番煎じとなった。老人は50年前に試運転に乗車できたという幸運に恵まれた。
この年は氷屋のアルバイトを9月初めに切り上げ、四国→九州への旅に出掛けた。また四国かいなと思う御仁もいらっしゃるかもしれないが、土佐電鉄に電車台帳筆写を前年申し出ておいたのに対し、許可するとの葉書があったからである。出掛ける前にO師匠宅に行ったら「沖中君、“こだま”の試運転に乗せてやるからなにがなんでも16日には帰っておいで・・・・・・」と言われた。高知では義兄の実家である南与力町教会に泊めて頂き、念願の電車台帳筆写を果した。まとめたものは、国鉄話ではないからデ元青では遠慮しておく。関心ある人は連絡されたし。
それからだが、国鉄バスの山越えで松山へ行こうとしたら、義兄の弟(3才年長)に台風が来ているから山越えは止めるように言われた。やむなく多度津まわりで松山へ、別府航路で九州に上陸できたのだが、足摺岬沖に台風2個居座ってしまい、上陸後、行けども行けども雨中を汽車に乗ってぼんやり窓外を眺めるだけとなった。やっと16日朝、京都帰着となりO師匠宅へ伺ったら「大阪駅下り線ホーム(5,6番線だったかな)上り方先端にX時においで、弟と前川君がいるから・・・・・・」と申し渡された。
当日、ホームへ行ったら師匠以下2人は老人を待っていてくれた。やがて20系が上り方より入線である。ホームは喧噪の渦の中、最後尾の運転台小窓が開き「O君、いま乗務員扉開けるからな」との声がした。眼鏡のおじさんであった。話に聞いていた設計者の一人、H技師さんであった。こうして試運転に乗せて頂くことができた。そして走りだしたのだが、車内は報道陣や関係者でごったがえしていた。師匠は技師さんと何処かに姿を消してしまい、取り残された3人は自由に車内をうろついた。車内設備では、それまで食堂車など利用したことなく、ビュッフェの設備やビジネスコーナーに目をいった。2等車といえども特ロ以上のシート、はたしてこのようシートに何時になったら乗れるのか、期待に胸を膨らませた。それが実現したのは5年後、京阪新1900系が登場した時であった。京阪特急は1700系新造の時、シート地に特ロ同等品を採用した。12年後には国鉄特急電車の2等車同等品としたのである。
窓外を眺めていると各駅を通過する時、ホームの人達の表情は驚きの眼差しであった。どんよりとした曇天の下、須摩海岸を走るとき、やけにヘリコプターがうるさかったのを今も覚えている。試運転列車は西明石電車区折り返しで、吹田工場に入庫すると知らされ、老人は2人と別れ山陽電車を訪ねることにした。
ところで九州を雨漬けにしたツィン台風はその後、伊豆半島に向け移動し狩野川台風と名付けられ、大変な災害を現地にもたらした。今年の神出鬼没のゲリラ豪雨、50年前はこんなに酷いものではなかった。被害に遭われたクローバー会会員がいらっしゃったら、
心よりお見舞い申し上げます。
トレランス1号の時、山科の人間国宝はH技師、Oさんを招待された。歓談されている人間国宝グループの中に入れていただいた時、「こだまの試運転に乗せていただいたのは、一生忘れられない思い出です。」と、H技師さんにお礼を申しあげた。
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