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このシリーズは、過去の記録とおぼろげな記憶で書いていました。やはり現場を確認するのが取材の基本と、先週、久しぶりに現地を訪れてみました。やはり、認識に誤りがありましたので、ここに訂正しておきます。
【1568】【1570】で、田野城さんが紹介された油小路通から見える駐車場の石垣を、【1569】で旧線時代の石垣と認識していましたが、前者は少し南側にある南北の石垣で、旧線時代の石垣は当然東西を向いています。両者は接近していますが、別物でした。その際に撮った旧線時代の石垣の現状を載せておきます【写真7】。
【1566】で載せた写真と同一地点ですが、背の高い塀が取り除かれたことによって、背後の旧線跡(現 オムロン+自由通路)が、約1mの高さの微高地になっていることがより理解できるようになりました。
(4)寺の前を走っていた旧線の列車
今までは旧京都駅の西側ばかりの探索だったが、少し東側も見てみよう。
駅前広場の東側、ルネサンスビル・ぱるるプラザの裏側を走る東洞院通といえば、ちょうど日本最初の電車路線である京電伏見線の始発地点でもあり、少し離れたところには「我国電車発祥之地」記念碑も建てられている。東洞院通には官鉄線を渡る踏切があり、南には京電伏見線、北にはのちに京電木屋町線の乗り場ができた。乗客は、踏切を渡るだけで、伏見から京都中心部へ電車を乗り換えることができたのである。
東洞院通の中ほどに、京都駅の駅弁を作っている萩の家がある。ここから塩小路通と並行して、細い道が高倉通まで延びている【写真8】。この道こそが、大正3年までの旧線の跡地である。
道の途中に正行院という小さな寺があり、通称“さる寺”と言われている。境内には竹田街道で使用されていた輪形の石(車石)が保存されている。
以前に大西顧問から聞いた話では、この寺の先代の住職に聞き取りをされたところ、寺の真ん前を煙を吐いた列車が走っていたことをはっきり覚えていたという。
興味深いのは、この寺を境にして道路がわずかに鉤型になっていることだ【写真9】。想像するに、ここから西へは駅構内が広がり、道路も少し南へ振った状態になって残っているのではないだろうか。わずかな道路の変化も、それなりに理由があるものだ。
【写真7 旧線石垣現況.JPG : 267.8KB】
【写真8 京都駅東部の旧線跡.JPG : 216.9KB】
【写真9 寺の前の旧線跡.JPG : 176.5KB】
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