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さて、老人が八畳の間に線路を引いて、電車もどきを走らせていたのを現認したのは、先日ホテルの番人を追われたY君ぐらいのものだろう。いまや一児のパパとなった息子が3歳の時、下鴨の従兄弟が正月にRIMAの乾電池を動力源としたHOを走らせた結果、「おとうちゃん、僕もあれ走らせたい!」となったのは当たり前だのクラッカー。阪急3番街で、エンドレス、DL、客車2両で親父の小遣いの大半は消え去った。ある日、下鴨からの帰路、松本を覗きこんだら息子は動かない。仕方なくRIMAのレィルに合うであろう貨車2両でご機嫌をとり、帰宅するや息子に宣言した。「一緒に電車つくろう!」
その結果、転宅後の増築で八畳の居間を確保したが借金で、家具を揃えることが出来ない。そこでお母ちゃん以下、お婆ちゃん、お姉ちゃんと交渉成立。ピアノとテレビを避け、真ん中にこたつが置けることが条件で向陽鉄道が設立された。社長・お姉ちゃん、経理部長・お母ちゃん、運転部長・たぁちゃん、車両係兼保線係・お父ちゃん、顧問・お婆ちゃんの陣容となった。1977年夏休みにコンパネ道床エンドレス2周で完成。その昔とった杵柄のペーパーモデルの電車が走るようになった。その冬にY君が来訪したのであった。しかし残念ながら向陽鉄道のエンドレスは、3年のはかない一生で終わりを告げたのであった。その後、コンパネ道床は運搬可能な組み立て式に改造され、各所で活用された。
JTS入会2年後、姫路の洋装店のオッサンが参入してきた。「架線集電や持ち運びが出来る集合レイアウトをやろう!」と提案した。そして芦屋の老人(教祖)、津のおっさん(訓師)が揃い、日本トロリィモデル倶楽部が結成された。その直後、夏の真っ盛りに阪堺電軌の旧型車をチャーターして宴会しようとの企画があり、「旗揚げ興行として何かおもろい事やろかいな、」となった。そこで、その昔の事を思い出し、「電車の中で電車走らせたらどないだ。」と提案した。乾電池を日本橋で買い集め、直並列に繋ぎ電圧と電流量を確保した。当然、乗客は拍手喝さい。その中に松謙氏もいた。しかし、もう一工夫必要である。12V確保したい。娘のバイクのバッテリィが軒先に転がっていた。見れば12Vである。「こいつだ!」。直ぐ姫路の洋装店へ電話した。試運転は上々であると、返電があった。
1995年、JTS旅行会は京都で開催となった。日本の電車開業100年を記念して、集合は梅小路公園となった。その日の夕宴は嵐電の旧型124+203をチャーター、特製弁当に生ビール飲み放題とした。トレィラーの連結面寄りには特製フワフワマットのレイアウトあり(P.22左は教祖、中は名古屋の変なおじさん、右は鎌倉の旦那こと吉川文夫さん)。退勤時とあり皆さん覗き込んで来る。「試運転快調!」と変なおじさんは窓越しに怒鳴ってくる。ホームのおばちゃんグループは「この電車、幾ら出したら乗れるの?」「うわぁー電車の中で電車が走ってる」。羨望やら驚きを後にして、吊り掛け音と共に天下の景勝地へ出発した。
その数年後、お花見運転会を「神戸しあわせの村」の花の下でやる様になった。年により当たり外れがあり、予約なしで出来る姫路・夢前川べりでもやる事にした(P.23)。近くのマンション自治会の人も加わり、川べりの電車ごっこは評判となった。変なおじさん達の電車ごっこは、これで終わったのではない。トレランス7号・オハフ15のサロンセクションを占有して、汽車の中で電車を走らせたのは、この変なおじさんグループであった。名古屋のおじさんは仲間を集め、とあるルートを通じ明治村と交渉、ある日1両貸切、単1何個でN電が動くかの実験に挑戦した。その夜、「沖さん、動いた、180個直並列に繋いだら成功した!」と報告してきた。(P.24、写真は当日のものではない)。135Vで動いたらしい。一瞬の事らしいが、変な事に挑戦したものだ。
しばらく「へんなもの探検隊」は休みます。理由はキャンブック「京阪特急」に取り組むためです。1950〜1970年代の写真を集めています。これを掲載してくれ!がありましたら、福田君まで送るか、連絡してください。1枚で1冊を謹呈、2枚以上なら薄謝がでる予定です。内容はクローバー会中心に構成されます。ご期待あれ!
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