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琴電シリーズが続行なので楽しい老人です。やいやいと尻を叩かれようが、「三八豪雪」で呆けているとやられたから満を持して受身となっている。玉座に胡坐かける時間が少なく人指し指一本でキイを押す時間に制約を受け、即座に反応できない。打ち終わったところで写真を、と思っても過去に高橋弘さんにプリントしてもらったものは、吉川、藤井両氏を始め各氏にプレゼントしたので手元にない。慌ててフィルムを探し、出入りの写真屋(コロナでなく、ごめん)で、ネガカラーのプリンターのお世話になっている老人である。
【734】で格調高い大人のワフを見せて頂き、ありがとう。だのにピンボケを編集氏に送りつけてしまった。単バネの貨車や客車に乗ったことのある御仁なら、今も忘れられない思い出をもつであろう。ワフ1140になんとか柔らかいクッションをと、戦災車の01形のブリル台車に変更したところ、今度はバウンドが酷くなりスピードを上げるや、いてもたってもいられないものになった、との話を工場長から聞いた。
【728】堀端の52は高松築港〜片原町間。【732】弘津君の書き込みで思い出した。10010形の制御器は日立のMMC。10000形と重連が出来るようにせよとのことから、次に紹介する変なものと一緒に買ったCSは使わなかったのだろう。
さて変なもの第2弾は12000形である。1957年9月、買収国電2両を仏生山工場で整備していた。この年の春、東京電車見物の帰途に見た、大垣電車区で留置してあった元富士身延鉄道のものであろう。これを「こんぴら2号」にする計画だと聞いた。なに、こんなオンボロを急行に! 急行は1953年に端を発する。この年には国体が高松中心に開催され、そのため琴電も62号を鋼体化、複電圧車として屋島〜琴平間を臨時急行で走らせている。その急行は、その後も高松築港〜琴平間で金毘羅大祭や正月に臨時列車として健在であったようだ。これを関西汽船、加藤汽船の定期便に接続させ、「こんぴらさん」へ参詣客を送り込もうとする算段なのだ。1958年から定期便で走らせる計画だとのこと。それには、10000形の「こんぴら1号」では接客設備に劣る、クロス車にしようとなったようだ。
さっそく整備中の車内に入ってみる。なんと天井、床をのぞき淡いピンク塗りつぶしで、シートモケットは臙脂色。まるで京阪1800系生き写しだ。(P37)いや特ロを意識したものであろう。元クハユニの方に移り、売店カウンターらしきものがある。(P38)乗務員室を仕切る開き戸には〒マークと共に差し出し口まである。将に変な電車だ。飯田線のような長距離を走るのにうってつけの電車に変身中であったが、WCはなかった。事務所に戻り、「売店営業するつもりですか」と聞けば、「営業の方で考えているらしい。戦前、食堂電車を走らせて評判になった。それを復活させたいと重役さんは思っているらしい。陶〜滝宮間は駅間距離が長いので中間に信号所をつくり、離合させる。」と工場長は語った。
1年後、再び訪問。この時、琴平から急行に乗った。「こんぴら2号」ではなく(P39)、500形単行であった。陶信号所では琴平行き普通列車と離合。なんと「こんぴら1号」ではないか。瓦町から仏生山へ戻ったら、12000形は「りつりん」のヘッドマークとともに一番西の留置線にあった。どうやら登場前に改名されたらしい。(つづく)
【変37.JPG : 79.3KB】
【変38.JPG : 155.5KB】
【変39.JPG : 114.3KB】
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