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http://www.asahi.com/business/update/0327/041.html?ref=rss
驚いた方も多いのであるまいか。
近鉄は三岐鉄道に旧三重交通の路線の北勢線を譲渡したのに続く、経営方針の転換で一気に伊賀線の分社化、それに続き養老線、湯の山線、内部線等々と次々に名古屋管轄の赤字線の切り離し策を発表した。
伊賀線は実は一昨日26日から伊賀鉄道なのである。呼称だけ遡れば一気に蒸気鉄道時代に戻った感さえある。
1980年代にDRFCの仲間らと近鉄ローカル線のことを趣味的に論じたことはあったが、現実にこう次々と支線の整理が出てくると、地方交通のおかれた現状の厳しさを認めざるを得ないのと、行く末を案じないわけにいかない。
骨格を作った大軌、参急、大鉄、伊勢電、それに統合吸収された養老鉄道や三重交通、吉野鉄道ら近鉄の発達史は経済、経営学的に論文の書けるくらい、日本の近畿、中部地方における交通発達史と企業統合史の実物研究材料であった。
その中でエポックメイキングな人材と時代史を一つあげれば佐伯勇の時代だろうと思う。
昭和39年10月の東海道新幹線開業の日に名阪直通特急の牙城が大打撃を受けるとみた佐伯は、発想を180度転換し伊勢・志摩への観光ルート開拓に腐心した。着々と打った手は、奈良電の買収、近鉄京都駅の改装、都ホテルのチェーン化、そして45年の志摩線改軌と特急の賢島乗り入れである。
振り返ればこの39.10.1という日は高度経済成長の日本に生きていた1億人にとって忘れられないカレンダーの1日であったと思う。
その日の明るい話題の陰でひっそり前日に消えていった鉄道があった。近鉄伊賀線の伊賀神戸−西名張間である。
いつも私は近鉄大阪線の長距離列車に乗り電車が美旗や名張あたりにかかる頃、窓の下の廃線区間に目をやりながら、日本の繁栄の陰で消えて行った田舎電車のことに思いを寄せる。
伊賀線よ、永遠なれ。
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