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【809】栗電訪ねて18きっぷ(その2) 乙訓の老人 07/4/4(水) 11:21 [添付][添付][添付]

【809】栗電訪ねて18きっぷ(その2)
 乙訓の老人  - 07/4/4(水) 11:21 -
  
昨夜は義妹一家と日が変わるまで宴となった。7時に起床して、白岡8時33分発宇都宮行(539Mレ)115系11連に乗る。久喜到着8時40分。接続の快速ラビット8時42分発黒磯行(3523Mレ)は115系7連、満員である。数年前に乗った時は165系10連であった。香具師の親分、子分の脇に立ち2人のやりとりを聞いていると面白い。寅さんまではいかないが、猫さんぐらいか。2人は宇都宮で下車、その跡に座れた。黒磯10時23分、準満員で到着。17年前、義弟、義妹、我が家の3家族で盆休みを3日間、那須高原で過ごそうとして来たことを思い出す。あの時は旦那に相談したら「間違っても定期急行には乗るな、臨急・津軽なら座れる可能性が高い。」と教えられた。上野へ発車1時間前に行き行列し、案内された急行はボロボロのオハ35、61の寄せ集め編成であった。嬉しかったのは牽引機がEF57であったこと、久しぶりに見て感激した。赤羽を出ると、傷痍軍人の装束で40半ばの男が2人現れ例の口上を一くさりの後、なんとアイスクリームの販売に及び唖然とした。1977年8月の話である。老人はこの時39歳であった。傷痍軍人は終戦の時、何歳だったのだろうか。
黒磯では跨線橋の傍に到着したので、4番ホームで待つ接続の福島行(133Mレ)へは先頭をきって行った。455系6連は既に後部3連の座席は埋まっていた。前部3連は半分ぐらいの着席率。老人は先頭へ向かった。カブリツキに立つためである。先頭車も準満員となる。発車間際に中年女性の一団が駆け込んできた。どうやら後部はデッキまで満員らしい。10時27分発車。薄汚れたED75の休車群の横を下り線に向かう。カブリツキに立ったのは昨日、掛川からの光景に刺激されたからである。
133Mレは高原を快調に走る。前方の展望は抜群である。その高原の真っ只中の久田野駅に入駅の時、40人位の家族連れらしい一団が眼に入った。彼らの前に停車したのは後部車であろう。黒磯でのこともあり、乗れないであろう。運転士は降りて後部に向かい戻ってこない。しばらくして戻ってきたが、まだ後部をみている。やっと合図があり発車となったが7分延となった。これまでの高速運転から、この遅れは回復しないだろうと思った。黒磯〜郡山間63.4km64分運転なのだから。単線、蒸気時代の急行並みでの運転なのだ。
郡山到着7分延。中年女性の一団は磐越西線「快速ばんだい」に乗り換えで下車したが、またしても超満員だろう。1時間後にも「ばんだい」はあるのだが、「急いで、急いで」と口々に言いながら跨線橋に駆け足であった。ここでアクシデント発生。若者グループの代表2人がホームの自販機をガチャガチャやりだした。交代運転士が信号確認やって車掌に合図を送った。扉が閉まると同時に一杯抱え込んだ2人が戻って来た。そして1ノッチが入った。「なんだよぅ、俺たちを置いてけぼりにするのか!」怒鳴っている。老人は乗務員室の仕切りガラスをノックして運転士に合図した。彼は後部確認で窓から首を出し気付き停止、車掌に信号を送り若者を救い上げた。
その後も7分遅れは取り戻せず、福島着は12時27分であった。駅前に出て軌道線が走っていた頃を偲ぶ。始めてきたのは1959年9月14日、上野から夜行で早朝着。夜明けまで待合室で追い寝だった。ラッシュ始まりとなり慌てて軌道線へ向かった。午前中は曇り空、午後は快晴だった。
腹がへった。駅構内食堂「磐梯茶屋」で鯖味噌煮定食と生中である。レシートに日本食堂と印字されている。1964年1月2日着の福島は旦那、須磨の大人、元ホテルの番人の3人と八重洲口から東北急行バスに乗り、郡山で別れて3度目であった。その時も一人で日本食堂の「すましの雑煮」で正月を祝った。朝ではなく昼食だった。
思い出の曽根田(飯坂西線車庫所在駅)へ向け歩き出した。カンカン照りである。生中2杯が効いてきた。それでも広軌719系5000代をワンショット(P104)。無人の曾根田駅から東北本線の交差点まで歩く。暑い!烏龍茶を自販機で購入して草ぼうぼうの築堤を駆け上がる東急中古車を撮る。限界である。中古車で福島に戻ることにした。中古車であっても冷房車は有り難かった(P105)。
福島駅に戻り駅前通りを東へ向け軌道線のルートを辿って歩くが、なんぼにも暑い。喫茶店は軒並み盆休みである。しかたなく「磐梯茶屋」に戻り、安宿名簿を繰り今夜の宿確保のため電話をした。
一ノ関駅前で4000円がOKとなった。そこで16時34分発(545Mレ)に乗ることにした。545Mレは715系4連(P106)、座席間隔がオロ40並みでゆっくりしているのが良い。若者(男)2人と相席となるが沈黙のコンビだ。それに引き換え後のボックスは競馬帰りの一団で、勝ち組と負け組が酒を酌み交わしながら本日の戦果を談じている。そのうち言い合いとなりボルテージは上る一方となる。名取到着で「ここだ、ここだ」と喚きながら下車、ワンカップ大関、缶ビールそれぞれ6本の残骸が転がっていた。
仙台で沈黙コンビが下車。変わって代々木ゼミの夏季講習帰りの娘3人が着席。話す内容が面白い。電車と関係ないからカット。鹿島台という始めて耳にする駅で下車。これよりワンボックス独り占めとなるが、老人は短足のため前シートに足首しか届かない。やっぱりオハ35か61の方が身にあっている。
石越19時12分着。発車するや「栗電」ホームの方を見る。知らない電車が1両停車中である。明日が楽しみだ。一ノ関終着19時35分。172,3kmを181分で走り抜けてきた。表定速度は時速57,12km、蒸気時代の急行列車並みである。宿は洋室でWCのみ。風呂へ行ったら、中学生をつれたおじさんと一緒になる。話すうち一ノ関工業高校卒業後は集団就職で東京へ、両親はバスで1時間以上かかる山中で暮らしている。最終バスに乗り遅れ、明日一番バスで帰郷するのだとか。風呂上りは3人で卓を囲み、10時まで話し込んだ。剣先(するめ)烏賊1杯を糸作りにしてもらったが、とてもうまかった。     2日目はこのような次第であった。それでも「栗電」の近くまで辿りついた。

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