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[813]今出川浄福寺氏の「沿線ご案内」石室よりカビもなく出土の件
戦後でも一時「石山螢谷」と呼称していた時期があったが、いずれ乙訓の爺様が黙ってられず適切なコメントがあるじゃろ。誤植ではおまへんで。添付時刻表一番下を御覧なされ。
水無瀬−橋本の渡し舟はお説の通り本来橋本遊郭のため。でなければ、川を挟んだ交通需要などほぼ皆無である。1950年代まで存続し、この年寄も自転車携帯で乗ったことがある。売春防止法施行後じゃによってお間違いのないように。
水無瀬側から乗り、中州?で別の船に乗り換える。ここで料金(記憶は薄れたが自転車とも20円だったか30円だったか。市電が2乗車25円、国鉄初乗り10円の時代)を徴収するから、取り漏れがない。確か夫婦でやっていた。
船は勿論全木製で、その時の相客は4〜5人だった。
蛇足(の方が長いのは今回に限らんが)だが、男山索道(株)が京都府乙訓郡山崎村−大阪府北河内郡菅原村間の免許を1927年6月25日取得。翌年男山鉄道に改称。
東海道線山崎/新京阪山崎から川を渡って橋本口、八幡口(京阪北側八幡駅前)八幡南口、北峠を経由し、片町線長尾に達する9.5km。両方から参拝客と精進落し客=遊郭に人を呼び込む算段で、最大の出資者は神社であったようだ。
当初電車、のち動力をガソリンに変更し、建設費150万円、内車輌費は13両単価7,500円、客車10両貨車3両などとある。
工事施工認可も申請したが、これは免許失効を防ぐ虚偽の手続で、淀川、桂川660mの架橋などできるわけもなく、1936年7月24日免許失効が官報に掲載されておる―という昔話もあるんじゃぞ。それにつけても(関係ないか)年寄は大事にせにゃいかんぞな、もし。
再蛇足だが、売防法で泣き泣き廃業した中書島遊郭は、やたらとある4畳半の部屋利用法に、当時の京大宇治分校(教養学部)生の下宿業に転業した例がある。
【時刻表1952年9月号.jpg : 262.9KB】
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