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栗電たずねて18きっぷ(その4)
白髪の人に田園風景のところを聞いてみたら、「沢辺の向こう、国道4号のバイパスの築堤へ行くと見晴らしが良いよ。」そこで若柳発10時34分発で移動開始。乗った151は良く走る。とはいえ速度計が65を指すとノッチオフとなり、直ぐに再投入の繰り返しである。三菱電機、住友金属、ナニワ工機、3社合作の電車だけあるなぁと思う。沢辺に到着。若柳発は12人(子供2人)、次駅谷地畑(やちはた)で子供2人下車、その後乗降者なく沢辺で3人下車、乗車が2人、9人乗せた電車はタブレット交換して西へ元気に走り去った。
沢辺の駅長に築堤に行く道を尋ねた。役場の横の道を行けば近いと言う。役場を前にして線路際へ出る畦道が目に入った。こいつだ思い線路敷に入りバイパスを潜り抜け、築堤の腹をよじ登る。将に絶景である。栗駒山が正面に見えるが、残念なことに暑さでもやっている。とにかくカンカン照りなのである。涼しいと思って来たのに昨日の福島といい、8月7日の京都と変わらない。これはたまらんと、バイパスの下へ逃げ込めば涼風ありで、天国だなと思い草の上で先のM151が戻ってくるのを待つことにした。11時40分にヨロヨロと動き出し、築堤の腹に張り付いたらやって来た。(P110)5ショット連写である。5分でM183が(P111)沢辺で交換してやってくる。それを待つ間の暑かったこと。
目的達成で沢辺駅に戻るコースは役場方向でない経路とした。人家が密集しているのが目に入ったからだが、大変な回り道となってしまった。駅待合室のポスターが気になる。「京都をつなぐ、みちのくの金成(かんなり)温泉、延年閣」とある。そこで駅長に聞いてみる。「あれですか、京風の建物と庭を売り物にしている温泉です。金成は金売り吉次の生まれた所です。」「なにが京都につながるのかと一瞬思いました。」「お客さん、京都からお見えですか。」「ええ、35年ぶりですが、その時は若柳迄でした。電車を訪ねて来たのです。」「35年前ねぇー、私入社して2年目です。その頃、社員は約150人おりました。当時国家公務員9等級(高卒、現業職)の初任給は4000円でしたが、ウチは6000円だったので入社したのです。」「それじゃ貴方は学校で優等生だったのだ。」「まぁ良い方でしたが、今ではこんなことになってしまい情けないですよ。」「大変活気のあった会社だったのですね。」「そうです、15年前までは活気のある会社でした。夜勤もありましたが、細倉の泊まりが一番きつかったです。」「夜行の貨物でもあったのですか。」「夜中の3時半頃に貨物列車組成のため入換作業がありました。それに備え2時には起きたのですが、冬は大変つらいものでした。電車の方も朝立ちが2本あり、泊まり勤務でした。」「鉱山は掘りつくし、早く駄目になったと聞きましたが。」「そうなってからは石巻で上った鉱石の精錬のため往復輸送で、重連で運びました。」「それがED20(P112)の重連だったのですか?」「鶯沢からの上りがきつくて、みんな泣きました。ところで今社員は何人だと思います? 正社員は26人、嘱託6人計32人です。保線も電気要員も全て分社化して外注方式にしました。社長以下、みんな掛け持ちで頑張って来たのですが、来年からは新会社に移行です。」
他にもいろいろ聞いたがこれ位にしておこう。出された名刺の肩書きは営業課・観光係長であった。とろで、須磨の大人が改軌前の姿を紹介してくれた。老人は本稿の最終編で、改軌後の姿を紹介することにしよう。
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