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[959]の三木鉄道廃止に関し、第三セクター鉄道に一時かなり入れ込んだ身から一言を。
加古川に沿った鉄軌道は何度となく計画され、測量や株式募集に到達したものも少なくなかったがことごとく挫折。最終播州鉄道が1913年4月1日加古川−国包(後の厄神)間を開業したのを皮切りに、高砂浦、北条町、西脇にと線路を伸ばし、最終鍛冶屋に1923年、谷川には1924年に達した。
三木線は別所(高木神社前)まで1916年11月25日、終点三木は翌年1月23日の開業である。
三木駅は美嚢川への架橋を避け、町の中心からかなり離れて設置された。それでも神戸・大阪に出るには加古川を経由するしかなかった。
三木電気鉄道が鈴蘭台−広野ゴルフ場間1936年12月26日、同−三木東口間翌年12月28日、同−三木福有橋間1938年1月28日開業し、1947年1月9日神有三木電気鉄道に合併。のち神戸電気鉄道と改称、小野、粟生に延長し、神戸電鉄として今日に到っている。すなわち神戸に出るのに加古川を経由する必要など全く無い。
播州鉄道経営者は第一次世界大戦時の大正バブルに浮かれ、本業以外の紡績業始め数多の投機的投資に没頭。鉄道も明石−飾磨、北条−山崎などにも新規や延長を計画するなどの大風呂敷を拡げ続け高額配当し、付帯事業の純益が本業売上を超えた時期もあった。
それが一挙にポシャり、同業各社中ダントツの負債を抱えて新会社播丹鉄道を設立し譲渡されたが、極めて多額の負債が後年まで重くのしかかっていた。
毎度ながら前置きが長いが、播丹鉄道は饗庭野演習場や戦車連隊はじめ沿線に極めて多くの陸軍施設があり、かつ谷川で福知山線と接続―山陽陰連絡線でもあったため、1943年6月1日買収され加古川線と支線になる。
その後枝状の支線が廃止あるいは北条鉄道、三木鉄道として三セク化されたのは周知の通り。
北条鉄道の方はまだ加古川経由の実益があるが、三木鉄道は沿線住民といえど利用客はほぼ皆無=西に向かう一般的な交通需要など殆ど無く、僅かに学生ぐらい。そのため並行するバス運行をわざと少なくしていた。
この線の三セク化は当時の知事の意向が大きかった由だが、現実には三セク化してまで残す必然性が最も低い鉄道であった。小生は当時一番早い廃止を予想していたが、以外に長持ちしたのは、線区が短いため赤字総額が低く、かつ知事―県当局の意地でもあったようだ。
廃止論者が市長に当選し、一番ホッとしたのは、実は県当局ではなかったか。
例により蛇足をいくつか。
播丹鉄道は三木町−明石市大明石町間19.110kmの免許を1926年5月31日取得。現在国道175線が一部未改良区間を残し交通多量の地域で、この鉄道が出来ていたら沿線は当然様相を異にしていただろうが。起業廃止許可は1937年12月17日。
上記の如く陸軍諸施設が目白押しで、高級軍人を一般乗客(陸軍は軍部以外をすべて「地方」と称した)と混乗させないため、播丹鉄道には2等廃止後も最後まで何と1等車が存在した。敗戦後別府鉄道が明石に残存していたイ5(木製2軸車)の払下を願出た記録がある。
戦時強制買収された鉄道を再度民営に戻す動き=被買収鉄道還元期成同盟会=があった。関西では南海鉄道(阪和)もメンバーで、播丹鉄道は払下適当ともされたが実現しなかった。
三木鉄道は富士重工業製2軸レールバス2両=ミキ180-101、102で1985年4月1日開業し、その後1998、1999、2002年にボギー車各1両=ミキ300-103〜105を購入。廃止後はどこか(北条?)が拾うか、それともミャンマー行きか。
【ミキ180-101.jpg : 68.2KB】
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