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1990年夏、貴方から1通の封書が届きました。お近くの江ノ電近影と共に「アメリカ・オレンジエンパイア・レールウエイミュージアムのN電19号の写真が1枚欲しい」と書かれた一葉がありました。この年GWに15名の路面電車同好会会員と訪問したメンバーに、私の名前があったので、お願いですと記されていた。貴方からお手紙を頂いた最初のものでした。私の名前を覚えて下さったことに大変感激しました。きっと京都鉄道同好会に起因しているのだろうと思いました。
高校時代、1955年ごろ奥野さん宅へお邪魔した時、「吉川さんがお見えになっている」と聞き、2階へ上ったら細身の背中がありました。お二人は熱心に語りあっておられたので、すぐ退去しました。DRFC時代、再び同じ場面がありましたが、
この時は奥野さんが私を貴方に紹介してくれました。それから「あこがれの吉川さん」となりましたが、お会いするのはN電の写真をお送りした1年後、枚方公園で実現しました。
大西友三郎さんの死去1年後、「お参りしたいが、どうすれば良いだろうか」との相談があり、奥さまに連絡を取り案内させていただいた。かねて奥様から遺品整理
について相談があり、「京電関係は吉川さんが適任です。」と申し上げていたので
お参りのあと、持てるだけのものを頂戴し、鹿島雅美さんの勤務先で段ボール2個として鎌倉へ発送した。
語りだしたらきりがないものがある。奥野さんに紹介していただいてから50年、
でも実質は1990年から、この17年でとても濃いお付き合いをさせていただいた。発病の予兆に最初に気づいたものとして、ずっと回復を祈念していたがが、残念なことになってしまった。吉川さん、また会える日を楽しみにしています。その時は思い切り電車をかたりましょう。
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