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「びわこ」を見せて貰ってから16年になるのですね。その節お世話になりなした。
マルキンと車号が分かるように木目線を少し省略しました。腰短冊板の幅不明のため、1/50の原図では1ミリ毎にを0.05ミリのサインペンで引きました。コピーしたら所々かすれましたので、0.3ミリのシャーペンで補正したら汚くなりました。
形式図に立面寸法記入なく適当にしました。車体外板間寸法は2.057ミリ幅、前面Rは3.052ミリです。これで前面形状を割り出してください。
塗色は若林美雄さんのメモによれば、「初めは褐色であったものが後に車体は青、
扉、窓部は黄色、屋根は光明丹」となっていると、吉川文夫さんに教えてもらいました。以上が戦前の姿でしょう。
変電容量ですが、樫藪変電所の容量を調べてみましたら100kWの回転変流器もありましたが、これは予備だったのでしょう。その後、丸亀本社隣に200kWが増設されましたが、坂出延長、ボギー車増備に備えたものと思われます。戦後、樫藪には
300kW水銀変流器が増設されました。
さて(合名)奥村電機商会のことだが、1885(明治18)年大阪で創業、1895年(京電開業の年)京都疎水慶琉橋(平安神宮へ通じる)畔に煉瓦造2階建の工場を新築した。1897年開校した京都理工科大学(現京大工学部、理学部)の技術指導を受け、急成長した京都のトップ電気メーカーであった。大正期に入り吉祥院・桂川の畔に広大な用地を取得、新工場を建設移転を果たしたが、第一次世界大戦後の不況から売上は急転直下倒産となった。吉祥院の工場跡地は現在、日本電池・ユアサの
西工場になっています。JR京都線から見えます。
倒産原因の一つに、奥村猛社長の粗暴な性格からくる労務管理の拙さがあげられている。倒産後、会社整理の上、奥村電機(株)として再起したが、国内での需要先は地方企業が主で台湾、朝鮮や中国での販路が上げられ、日本の電鉄界ではあまり名を聞かない。老人は15年ばかり前に名古屋市交通局日進車庫を訪問した時、保存車1421号のコントローラーに奥村電機の刻印を見つけ感激したことがある。タイプはKR8であった。終戦と共に消滅したようで、今は名を聞くことがない。
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