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【867】沖縄の電車  (その1) 乙訓の老人 07/5/16(水) 21:16 [添付][添付]

【867】沖縄の電車  (その1)
 乙訓の老人  - 07/5/16(水) 21:16 -
  
老人は1997年11月、沖縄に行くことができた。小学校の頃、父の本箱から百科事典を持ち出し見ていたが、その中でも地図を開くのが楽しみであった。鉄道図の電気鉄道は赤線で、沖縄にも1線あり、どこを走っているのか関心を持っていた。小学校5年の時に学校図書室が整備され利用できるようになった。最初に目を付けたのは「日本地理風俗体系」という写真集であった。各地の街の風景には電車があり、なんども閲覧した。もちろん沖縄のものもあったが、電車のかたちが分かるものではなかった。(ピク誌226号掲載)。沖縄にはどんな電車が走っているのだろうか、こんな思いを持ち続けていた。
沖縄に行けることになり、恐らく戦災で亡くなったにせよ、何か昔を偲ぶものがあればと、期待するものがあった。出発を前に鉄道資料30号を読んでみると1933年廃止とあり、その理由を高山師匠は触れていない。那覇での宿泊先は沖縄都ホテルで、沖縄電気軌道の起点・首里地区にあると知り、小学生の頃からの願いの一端が叶えられないかと期待に胸をふくらませていた。
ホテルには15時頃に到着。18時30分まで自由行動となり国際通りへ土産物を求めにいくことになったが、老人はホテルまでのだらだら坂が気になっていた。坂道は段丘の斜面を削ったもので、東へは首里城跡への道筋だとガイドは言っていた。この道路は明らかに街道筋であり、道路幅を広げ電車を走らせたに違いないと思った。バスに乗る一行と別れ、老人はだらだら坂を西(那覇)へ向け歩いた。道路の左(南)は崖で、その下を蛇行する流れがあった。川べりには住宅が密集しており、川の擁壁はコンクリートやレンガ造りが混在していた。ひょっとして橋桁の架台ではなかったか、と思われるものも眼に入った。坂を下りきった大道交差点まで30分ばかりの道のりであった。(OP1)
交差点で古本屋「暁書房」の看板が目に入り、何かないかと覗いてみた。あった。大当たりであった。写真集「むかし沖縄」を見付けた。こうなると土産物は適当にして、今歩いて来た道路は沖縄電軌の経路だと決めつけ、今すこし西へ向かうことにした。ゆいレールが交差する所まで来た時、空は一転暗闇となり、にわか雨に慌ててタクシーでホテルに戻った。
首里城跡は修復工事中で、翌日は自由見学となった。これ幸いと、シートに覆われた城跡はちらりと見て、周囲の道路を観察したが電車の遺構など発見できなかった。そこで写真集にあった泊高橋(OP2)の姿はどうかとバスで向かった。こちらも何も見付けられず、漁港であること知っただけであった。この日の市内観光は若狭大通り、久米大通り経由となったが、戦災復興事業は道路の直線化、拡幅で昔の姿はなにも残していなかった。ステーキハウスでの昼食の後、空港直行となり、ゆいレール建設現場を車窓にしただけであった。3泊4日の旅の最後に電車にこだわることができて、楽しかった。電車は1929年、バスが開通することにより4年後に廃線となった。同称十念。

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