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元ホテルの社長氏から貴重な写真が紹介され、それを補強する写真も掲載された。これをネタに老人の蘊蓄を披露することにしよう。
25年ばかり前のこと、暇にまかせて府立資料館で日出新聞のマイクロフィルムを見ていた。その時、京津電車開業日に乗った記者の乗車記が目に付いた。当該区間を転載する。
「六地蔵の一つ、廻地蔵は四宮停留所から近く、人康親王隠棲地も遠からぬとかや。醍醐宇治伏見への分岐点を、昔の人は趣味あって“追分”と命名している。この停留所から軌道は東海道線の下を潜って再び街道に出る。サアそろそろ逢阪山のダラダラ登りになっている。一代の洒落者、一九爺さんが恐ろし忙がし餅だよと折り紙附けた走井餅屋の前を、下戸が唾をのみ込んでいる間に走って、大谷停車場の真向かいで停車する。大谷停留所で、ここでは汽車並みに名物走井餅は如何と売子が窓へ来る。
下戸向きの走井餅の表を走った電車は、今度は甘辛両党に歓迎せられる鰻屋のかね与の裏を通る。しばらくすると電車軌道には余り例を聞かぬトンネルに入る。いわゆる逢阪山のトンネルで、2丁余もあろう。抜けるともう八町阪で上関寺だ。琵琶を抱くひまに「これやこの」と歌っていた蝉丸さんも、まさか末世に電車が無遠慮な音をたてて走るとは思いも及ばぬこと。「行くも帰るも別れては」どころか、知るも知らぬも同じ車で逢阪の関と来てござる。
ここから再び鉄道線路の下を通るのであるが。これは何分鉄道院の干渉が一通りならぬもので、第二期の工事となっているから、当分お客様には乗換の御足労を掛けることになっている。次の停留所は長等公園下で、鉄道線路の下を向こうに曲がった所が停留所で、まず半町歩かなければならぬ。」以下略。
この記事によれば大津・札の辻〜三条大橋間が一挙に開業したのではなかった。大津方には1形12両のうち10、11号の2両が配置された。開業7日後、上関寺乗換箇所に留置中の10号が逆走、札の辻停車中の11号に衝突、2両は大破した。代替はどうなったのか不明。11号は復旧させたが10号は廃車となり貨車の種車となった。鉄道院線路下が開通したのは開業年12月14日らしい。日出新聞で調べたが、記載なく確証がとれなかった。
一方、走井餅屋は徒歩で峠を登り下りする人が激減、転業の策を講じているとの新聞記事もあった。老人が自転車で峠を登り下りしていた小、中学生の頃、餅屋の面影を残す建屋が大谷停留所西南の国道沿いに残っていたように思うのだが、山科の住人であった須磨の大人さん、どうだったでしょうか。元ホテルの社長氏が入手された写真は大津市史にも掲載されている。出所については然るべし部署に問い合わせては如何かな。
添付図は1905年の地形図にいたずら書きしたものと、20年ぐらい前に作図したポンチ絵である。写真の右奥に見える電車はこれか同形の16形であろう。
【京津1.jpg : 97.5KB】
【京津2.jpg : 96.9KB】
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