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米っ子氏の法勝寺鉄道→伯陽電鉄→山陽中央鉄道→日の丸自動車(法勝寺電鉄)廃線跡探訪を読み、52年半前の記憶が蘇った。小生芳紀18歳、高校は何とか曲りなりにも卒業し、大学入試勉強の気はさらさらなく、全く前途真っ暗闇。
いたいけな心と体を毎晩駅待合室で寝袋=朝鮮戦争での米海兵隊員死体を日本に運んだ後放出=で癒しながら、九州から東北までひたすら空腹に耐え、うろつきまわった一端である。
下関23時26分発鳥取行828レで1955年3月22日6時55分出雲今市に下車。一畑電鉄立久恵線に奥まで乗り、電車で北松江へ。さらに島根鉄道をのぞき、この日最終に日の丸自動車(法勝寺電鉄)に寄った。
確かに米っ子氏が書かれたように、米子とは名乗っていても、この田舎ボロ電車の起点は国鉄米子駅から相当に離れていた。天気も気の滅入り同様に暗かった。
撮影は5コマのみ。電車の解説は乙訓老人にまかせ、小生は客車を。フ50は側戸式50人乗り「マッチ箱」車を貫通、ロングシート化したもの。関西鉄道→鉄道院ハフ3237〜45のうち1両→鉄道省ハフ4734→伯陽電鉄附50が経歴である。
製造はバービンハム工場1887年製とされるが、平岡工場、関西鉄道湊町工場でも同型車を製造しており、最初の番号が特定されない限り、英国製とは断定できない。撮影時点では妻面に貫通扉があるが、のち窓3個に変わった。
この車輌に関しては、青木栄一/堤一郎「旧日の丸自動車法勝寺鉄道フ50号木製2軸三等客車の調査とその産業遺産としての意義」という長い題の論文(産業考古学118号)に詳しい。
フ51は旧愛知電鉄64(日車1912年製)。大正元年上半期日車売上台帳に「愛知電鉄会社電車車体4という記録があるのが該当するのだろう。
フ52は新宮鉄道自社製ハ11〜17のうちの1両で、元来オープンデッキ車だったが、外妻、引き戸を設け中妻を撤去している。木製エンドビーム両端に「新宮鉄道」の鋳込銘板が健在だった。大分交通ではオープンデッキのまま使っていた。
フ53は開業当時譲受けた愛知電鉄デ1を1954年客車化したもの。
当時の時刻表では日の丸自動車(法勝寺電鉄)は米子−法勝寺間12.4kmに27分を要し、15往復。1944年1月11日休止した阿賀−母里間5.3kmは1959年9月17日廃止、残った米子市−法勝寺間も1967年5月15日廃止された。
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