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昭和41,2年頃のことと記憶しますが、宮田輝の「ふるさとの歌祭り」でこの町が取り上げられて、山陰によなごという町があることを知りました。
その後、鉄道のことに興味が募るにつれて、福知山と米子は管理局のある鉄道が主要産業の町だろうと想像を深めていました。
私の居た九州だったら、早岐とか柳ケ浦といった中継機関区や大きい分岐のある駅が小さいながらそんな雰囲気を漂わせていました。
交通の主役が鉄道であった黄金時代にはその町からさらに支線や奥地に行く私鉄があり、それは鉄道好きには想像するだけで楽しい旅の車窓が広がっていたと思います。もちろん一般の人には単調な田舎の旅でしょうが、往時を知る人に話題を向け、支線の記憶をきく、それが私の少年時代のささやかな楽しみの一つでした。
いま、湯口兄の著書など通じ、貴重な写真を再び見ることができ、感慨に堪えません。
この写真はこの前の天王寺の古本市でみつけた昭和32年の鉄道地図から拡大してみました。
くだんの法勝寺電鉄も載っています。さらに安来の次の荒島から出ていた島根鉄道もまだ健在です。
出雲広瀬に何があったのか。ここは毛利の出た富田城のあった場所で一種の古都であったようです。昭和40年頃の鉄ピクに島根鉄道を偲んでという記事が載っており古書でこれを入手したのも昭和49年頃、あれから30年が経ってしまいましたがいつか訪ねてみたい場所の一つです。母方の郷が毛利と関係があることもあります。
能義郡のさらなる奥、比田という所を出た戦前のある作家を調べていることもあり、まとまった時間がとれるようになったら訪ねてみたいものです。
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