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【1207】「少し前の名鉄岐阜市内線」で単車最終日について書いた処、早速湯口先輩より、昭和32年頃の貴重な画像を公開戴いたので、前回同様判る範囲で解説したい。
モ20
元瀬戸電気鉄道テ1形の23〜27のグループで、大正8年京都の丹羽工場製である。名鉄合併後モ20形21〜25となり、昭和24年に25が20に改番された。元はオープンデッキで扉は後付けである。モ23は昭和35年に岡崎市内線に転属し、昭和37年同線の廃止と共に廃車、残りの車両も昭和38年までに廃車となった。ちなみに写真のモ20は昭和34年4月に廃車となっている。
モ27、モ28
揖斐線の前身、岐北軽便鉄道が大正3年3月忠節〜北方間開業時に日本車両で製作した3〜6のグループである。大正10年11月美濃電に合併、名鉄合併後モ15形を経て、モ25形となった。昭和38年までに廃車となった。湯口先輩が撮影された時点でもオープンデッキであるが、その後、廃車時までの間に扉が取り付けられたどうかは把握していないので、ご存知の方よろしくお願いします。
モ65
岐阜市内線の戦災車をモ50形として、昭和21年から22年に名古屋造船所で車体を新製したグループで50〜66の17が在籍した。昭和29年から35年にかけて岡崎市内線に転属し、同線廃止後と共に廃車となった。
モ70
【1161】「少し前の名鉄美濃町線」のモ71と同一グループで、元瀬戸電気鉄道テ1形の17〜22として、大正2年4月名古屋電車製作所製である。名鉄合併後モ10形14〜19を経て、昭和24年の改番でモ70形70〜75となった。廃車はモ74のみ昭和38年8月、その他の車両は昭和39年10月であった。
ここから本題に入る。
「単車の最終日であったから勉強を抜け出して撮影に行ったのだろう」と思われている方がおられるようであるが、それは間違いで、当時は現在ほど情報網が発達しておらず、地域の情報は地元に知合いでもいない限り仕入れることは難しかった。偶然とはいえ、訪れた日が最終日というのは、宝くじに当たったような気持ちであった。
最終日に在籍していた単車は下記の通りである。
形 式 車番 両数 製造年 製造所 旧所属
モ1 3 1 明治44年 天野工場 美濃電
モ10 10〜12・14・16 5 大正3年 名古屋電車 美濃電
17・19 2 大正7年 名古屋電車 美濃電
モ30 30〜34 5 大正9年 名古屋電車 瀬戸電
モ35 39 1 大正9年 名古屋電車 美濃電
ボギー車及び北陸鉄道からの転入車については次回以降とし、前回に引き続き
単車の写真をご覧戴きたい。
上から
1.モ12 昭和44年7月23日 岐阜駅前
2.モ19 昭和39年6月24日 長住町車庫
3.モ34 昭和44年7月23日 岐阜駅前
4.モ39 昭和39年6月24日 岐阜駅前
5.モ72 昭和39年6月24日 長住町車庫
【モ12.jpg : 104.3KB】
【モ19.jpg : 96.8KB】
【モ34.jpg : 108.5KB】
【モ39.jpg : 80.1KB】
【モ72.jpg : 108.3KB】
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