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【1271】でささやかではあるが東武鉄道伊勢崎、日光線系統の車両を紹介したが、今回は野田線の車両を紹介する。
野田線は、大宮から春日部、野田市、柏を通り船橋を結んでいるが、全線通しで乗車する客は少なく、沿線の途中駅から大宮、春日部、柏、船橋で乗換え都心に向かう客が多い。つくばエキスプレス開業後は、交差する流山おおたかの森駅で乗換えて秋葉原に向かう客が増えている。船橋から春日部経由で日光、鬼怒川方面に向かう客は少ないため、「日光フリー切符」「尾瀬・鬼怒川ルートパス」等の割引切符類は新柏から船橋方面の各駅では発売されていない。昼間10分間隔で運行されており極めて利便性は高いが、単線区間(春日部〜運河、逆井〜六実)での離合待ちは如何ともし難く、全線で約90分を要している。
野田線の歴史を簡単に振返ると、明治44年5月、野田で生産されている醤油を輸送する目的で、野田町(現野田市)〜柏間を千葉県営軽便鉄道野田線として開業。軽便鉄道と云っても軌間は国鉄(当時は鉄道院)と同じ1067mmであった。大正12年8月北総鉄道に譲渡、同年12月柏〜船橋間を開業した。その後部分開業を繰返しながら昭和4年11月大宮まで全通し、社名を総武鉄道に変更した。昭和19年3月1日に陸上交通事業調整法に基づき東武鉄道に吸収合併された。北総鉄道→総武鉄道は元々京成電鉄系の会社であったが、東武と合併当時は京成との関係は薄れ、キッコーマン醤油の傍系会社となっていた。
全くの余談であるが、銚子電鉄の本業は煎餅会社と思っている人がいるそうであるが、売上高、利益構成を見るとそのように思われても無理からぬところである。しかし煎餅のおかげで有名になり、乗客が増え収益が改善されたのであれば結構なことではないか。聞くところによると来年度中古の冷房車を4両も導入するとかで、元近江鉄道の701、702、鶴見臨港の買収国電生残りの301、元伊予鉄の801の引退は残念ながら避けられない。何処の中古が入るのか興味深い処である。
話を野田線に戻すと、現在車両は、オール8000系の6連で変化に乏しいが、昭和40年代は3200系、同系の車体更新車3500系を主力に、4扉の7800系が4連で運行され、40年代前半では総武鉄道から引継いだ車両も健在であった。
1.大宮公園〜北大宮間を走る4両編成(後追い) 昭和43年9月16日
昭和40年代の野田線を代表する編成で、2両目は野田線の前身、総武鉄道引継ぎのクハ220形である。
2.モハ3200 七光台検修区 昭和43年9月16日
昭和2年日車製で、デハ4形と称されていた。次の3210形と共に戦前の東武を代表する車両で、元は両運、クロスシート、トイレ付であったが、戦前にロングシート化され、戦後、トイレと副運転台の撤去が実施された。
3.モハ3211 七光台検修区 昭和45年9月15日
昭和3年から4年にかけて、日光線全通、伊勢崎線、東上線の電化に備えて、日車と汽車会社で44両作られた。電5形と称され、2扉ロングシート、長距離運転のためトイレ付であった。当初は片運であったが、単行運転の必要性から副運転台が設置され両運になったが、増設運転台はトイレが左側にあるため右側に設置された。写真のモハ3211は日車製である。
4.5. モハ3237 七光台検修区 昭和45年9月15日
昭和3年汽車会社製の車である。日車製はスソに切れ込みがあるのに対し、汽車会社製はスソが一直線になっている。多くの車は戦後副運転台の撤去が行われたが、この車は残っていた。
トイレ付の電動車は近鉄モ2200が有名で、トイレ部分に窓が無く、正面から見ると片目であったが、東武は目隠しのため窓ガラスを白に塗っていた。
【野田線の4連.jpg : 134.3KB】
【モハ3200.jpg : 213.6KB】
【モハ3211.jpg : 91.1KB】
【モハ3237@.jpg : 68.2KB】
【モハ3237A.jpg : 105.1KB】
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