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◎C62重連「ていね」
北海道の鉄道はC62抜きにして語れない。函館本線小樽〜長万部間、通称“山線”の急行「ていね」を牽くC62重連の力闘ぶりは、当時の蒸機ファン最大の憧れだった。
高校生のころだったか、東海道、山陽の幹線を走ってこそC62は相応しいカマと思っていた身に、北海道のC62はどう考えても不似合いに思えた。しかし、『鉄道ファン』などに紹介されるC62の記事を読むにつけ、次第に心のなかに定着してきた。いつかは北海道へ行き、撮影名所の上目名に立ってみたい、そう思うようになってきた。
少し北海道のC62の歴史を振り返ってみよう。
日本の表街道で特急、急行の先頭に立っていたC62も、東海道線が全線電化されると大部分は山陽筋に移ったが、7両だけは軸重軽減工事のうえ昭和31年に北海道に送り込まれた。その中には、デフにツバメのマークを付けた2号機も含まれていた。
それまで小樽〜長万部間はD51が急行列車を牽いていたが、動輪径の小さいD51を高速で走らせるなど運転条件はたいへん苛酷で、逼迫する旅客需要に対しても輸送力強化は急務だった。
こうした事情を背景にC62の転用が実現した。結果、D51と較べると、牽引力、速度とも遥かに優れ、乗務員の作業環境も大幅に改善されたという。急行「大雪」「あかしや」「まりも」がC62牽引となり、小樽築港〜長万部間ではC62重連同士の交換が何回もあったという。その後、DCに置き換えになるなどC62の運用は次第に減少、急行としては「まりも」1往復のみとなった。その「まりも」も運転区間の短縮によって昭和40年に「ていね」と改称している。
昭和43年8月時点では、小樽築港〜函館間の「ていね」のほか、いずれも夜間ではあるが、長万部〜函館間で急行「すずらん」、小樽〜旭川間で急行「石北」もC62が牽いていた。小樽築港機関区所属のC62は、2,3、30、32、44の5両で、呉線電化で転属する15、16はまだ来ていない。
C62重連の迫力については、これまで多くの書物で喧伝されているので多くは書かないが、未体験世代にはずいぶん大仰な表現に聞こえるかもしれない。しかし、実際この目で見て、乗って体験をした身には決してオーバーには映らない。その迫力はC62重連ならではのものだった。
ひとつだけ印象を記しておこう。
北海道へ来て第一日目、長万部から待望のC62重連「ていね」に乗った。目指すは倶知安、ユースで一週間ぶりのマシな食事と風呂が待っている。一緒に乗ったのは一学年上の小池さん(途中で退部、その後に早世された)、ワンボックスの空席が見つかり窓を全開してC62を堪能した。ところが、すごいシンダーが入ってくる。粒状になっているからトンネルに入ろうものなら、バラバラッという感じで降り注いでくる。小池さんは途中から口を開けたまま爆睡してしまった。進行方向に向かって座っているからじかにシンダーの攻撃を受ける。倶知安に着いたとき、私は言葉を失った。赤いはずの舌が真っ黒になっているではないか。
これほど左様な煤煙で、「ていね」は一般の乗客からは極度に嫌われていた。その当時、札幌から函館方面への通しの旅客は、時間も本数も優る室蘭本線経由に流れ、小樽、倶知安などの中間駅から渋々乗ってきた客だけだった。
写真は北海道最後の日、最後の仕上げにと2回目の上目名に向かった。撮影地を求めて線路沿いを歩いていると、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。見上げると、はるか崖の上に、へばりつくようにして同行していた山川さんがいるではないか。誘われて、私も90度近い絶壁を何度も滑り落ちながら登って写した。
期待の煙はほとんどなく、あっけなく目前を通り過ぎていった。C6232+C623、前照灯が三つ目の時代である。
今回の撮影は様子見と言った感じだったが、その後も北海道へ行くたび、「ニセコ」と名前を変えたC62重連を追い続けた。
C62、ていね、上目名は、青春時代の北海道のキーワードとして、いまも心の中に刷り込まれている。
これで、初めての北海道での撮影は滞りなく終わった。あとは帰るだけだが、それはそこ好奇心旺盛な身、途中、東北や北陸の要所にも立ち寄り、まだまだ撮影を続ける、若き日の自分だった。
【上目名C62ていね.jpg : 489.7KB】
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