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夢に出た土佐電600形3重連
土佐電の方はダットサンで駅へ送って下さった。3等車の一隅でうつらうつらしていたら車掌がやってきて、2等車に案内された。後で当時の時刻表を調べてみたら、130レ16:11発だったようだ。なぜなら「ロ」連結だったからだ。車掌は高知で引き継いだ時、土佐電の方から要請があったと語ってくれた。善通寺20:11着のはず。徒歩20分ばかりの四国学園宿舎までタクシーで向かった。扉をあけたら姉が「たぁーちゃん、どうしたの」とびっくりであった。この時の計画は御免より東行、安芸、室戸、牟岐、徳島、高松、松山、仁堀航路、呉、広島、尾道を経て帰京の予定であった。従って善通寺に立ち寄るつもりはなかった。だから、びっくりだったのだ。
<フィルムから推察するに31、1日と寝て、2日午後には足ならしに琴参と土讃線の並行区間へ行っている。電車と汽車が並んで走っているシーンがないのは、チャンスに恵まれなかったのだろう。DF50先頭の列車があるが、普通列車で準急“南風”ではない。珍しい列車はC12牽引のもので、本来、この筋はキハ17の2連×2、高松→豊浜、琴平なのだが、多度津〜琴平間はC12+客車3両となっていた。客車は戦前のスロネ格下げ車であったように思う。朝の通勤列車に琴平→高松間8620牽引があったが、その客車がそれだった。C12は多度津工場入換用のものだろう。大麻(おおさ)から琴平まで歩いている。>
3日は高松。写真少なく、きっと仏生山で向井工場長相手に話し込んでいたか、図面筆写に没頭していたに違いない。65号、230号の図が残っている。4日、琴参善通寺車庫。5日、昼行列車で帰京。
翌年3月、卒業を前に四国のやり残しを達成しようと思っていたら、就職先から呼び出しを受け3月1日繰り上げ入社となった。tsurukame君を呼び出しNEOPAN SSを5本渡した。「四国へ行くなら可能な範囲で電車を頼む」と言った。その時のフィルムを今も預かったままだが、だんだんカールがひどくなってきた。缶を開けると、あの臭いが・・・・・・。
安芸まで600形で行けたのは5年後で、室戸で現場打ち合わせのためであった。勤務先は1967年に京都に変わったが、担当先の四国巡りは1963年11月から継続中で、大阪万博を前に関西の建設業界は空前の活況状態になった。1969年10月、儲からん四国は切り上げ時と判断し、高知のお得意先へ挨拶に行ったら「安芸発の朝の急行は3両連結だよ。」と、店主に言われた。だが、行けなかった。この悔しさを20年後、今出川浄福寺君にぶつけたら当時、3連急行は朝3本あったと教えられ、1970年11月30日撮影の姿を送ってくれた。
【Jun27#76.JPG : 65.8KB】
【Jun27#77.JPG : 85.6KB】
【廣瀬車両製.JPG : 103.8KB】
【善通寺工場製.JPG : 132.7KB】
【夢に出た3重連.JPG : 131.3KB】
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