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長老の書かれた「DRFC初の一泊旅行記」楽しく拝見させていただきました。もし今でも112レと同じ時間帯の列車が運転されていれば、「青春18」で同じコースを辿ることも不可能ではないかも知れませんね。それにしても、40年前に当会に「鉄子さん」が2人もおられたとはビックリです。お元気であれば、是非クローバー会総会にご出席いただき、当時の思い出話等お聞かせいただければと思います。
昭和41年3月、112レとほぼ同じ時間帯の列車、大阪23時50分発東京行144レで飯田線の電車撮影に行ったことがあります。
長老が撮影された写真の件、トップはクハユニ56で、車号は郵便・荷物扉の形状から56004と特定できます。クハユニ56は飯田線にのみ在籍した(例外は後で書きます)形式で56001〜004、011、012の6両在籍しました。001〜004は元クハニ67で旧車号は順に001、003〜005、昭和26年から27年にかけて、座席のセミクロス化、郵便室、トイレの取付けを行い飯田線に転属しました。001は昭和11年製、002〜004は14年製でノーシル・ノーヘッダーとなっています。
011と012は、戦時中の昭和18年、横須賀線用のモハユニ61001〜003として作られたものの電装されたのは後にクモハユニ64000となった001のみで、002、003はクハユニ代用で使用され、昭和27年に、セミクロス化、トイレの取付けを行い、正式にクハユニとなり、飯田線に転属しました。
3番目の荷電はクモニ13で、車号はパンタの形状(補強付PS13)から13034と特定できます。飯田線では、025,026、034の3両在籍し、昭和42年頃まで自連付で写真のようにワム+ワフを引いておりました。
撮影された場所は中部天竜駅となっておりますが、クモニ13の写真から見た構内配線、バックの風景から3枚目までは平岡駅と思うのですが如何でしょうか。(駅構内の雰囲気は中部天竜、平岡ともによく似ています)
1.クハユニ56001 昭和48年3月25日 松本駅
昭和11年12月の松戸電化の時クハニ67001として作られた。昭和26年11月豊川分工場でクハユニ56001に改造。
飯田線専属の車が松本に居た理由は次の通りである。昭和48年5月27日付で中津川〜塩尻間が電化され、上松〜聖高原間にローカル電車を運転するに当り(松本〜麻績・聖高原間は以前からキハ07→キハ52が運転されていたのでその置換え)、第一陣として中部天竜からクモハ51804、沼津からクハ68001、68011が北松本に転属した。3両では不足のため、豊橋からクハユニ56001、沼津からクモハ51850が貸出された。3月23日、豊橋から56001+51804の2連が富士に向けて出発。(飯田線を北上すると松本到着時に向きが変わってしまう)富士で後部にクハ68011+68001+51850を連結、翌日向きが変わり、51850を先頭に身延線を北上、甲府からそのまま中央西線に入り松本に到着した。56001は特殊な車のため使用されることは少なく、8月頃返還されたが、51850は1年以上も使用され、その間に青22号に塗り替えられてしまい、返還後スカ色に戻された。
2.クハユニ56011 昭和48年7月28日 豊橋機関区
昭和18年11月モハユニ61002として作られるも、時節柄電装品不足のためクハ代用として使用。座席は本来セミクロスの予定のところ、板張りロングで、しかも半減されていた。昭和27年4月豊川分工場で本来のセミクロス化、トイレの取付けが行われ、クハユニ56012となった。
3.クハユニ56003 昭和40年3月20日 豊橋機関区
長老が撮影された56004と同じノーシル、ノーヘッダーのグループで、元クハニ67004である。
旧形国電は、戦後の更新修繕や使用線区に応じた小改造等で1両毎に差異が生じているため、車両の特徴さえ掴めば車号の特定は容易である。
4.クハユニ56002他3連 昭和52年5月4日 田切〜伊那福岡
56002は客室扉が旧タイプの桟付であった。
5.ED191の引く貨物列車 昭和46年9月25日 伊那新町〜宮木
湯口 徹様
大先輩から過分なお言葉をいただき有難うございます。旧形国電の話題になると年甲斐も無く血が騒ぎます。ただそれだけですので。
【クハユニ56001.jpg : 88.0KB】
【クハユニ56012.jpg : 123.4KB】
【クハユニ56003.jpg : 115.1KB】
【クハユニ56002.jpg : 279.4KB】
【ED191貨物列車.jpg : 166.6KB】
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