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孤独老人が相手をしてもらいたくて懸命、という感が無くもないクイズだが、DRFC-OB諸兄の解答は素晴らしい。今回も[1505]デカンショまつり号氏、[1509]ぷるぷる氏を合わせて100%のお答えであった。すっかり嬉しくなった老人は、急ぎの用をほったらかし、すぐ次のスキャンに。
なお禿筆を以って蛇足を加えれば、このオミ46はPXカーなのである。post exchange の略=米陸軍用語で「物品販売店」、そう旧日本軍での「酒保」に該当する。移動式酒保である。
ただしその中身たるや、日米の差は物凄く、正に何でもありで当時の日本人には夢のごとき天国であった。拙老とて見たこともないが、大陸から裸一貫で引き揚げてきた叔父貴が、英語が達者で京都四条通の大建ビルを接収した占領軍(といっても100%米軍)京都地区司令部の日本人支配人を務めていた。
そのため叔父の家には一般日本人に無縁の宝物―焼けたら自動的にパンがポップアップするトースター、ミニチュアー真空管式ポータブルラジオ(A電池は単1×3個、B電池は67.5V積層=電灯線共用)、45回転のヴィクターEPオートプレイヤーなどなどがあった。当時朝日新聞が連載していた米国漫画「ブロンディ」や映画でのアメリカ生活の「極々一端」ではあった。
毎度前置きが長いが、このPXカーには他にも山の如き宝物―ネスカフェのインスタントコーヒー、ハーシーのチョコレート、ジョニ赤や黒、カティサーク等のスコッチ、コダック製品一式、パーカーのボールペン等々、日本人に手が届かないため息の出るような商品がぎっしり詰まっていた。
そのため盗難が必然で、かような盗人除け金網が張られていたのである。なお主要都市やキャンプには当然大規模な店舗があって、神戸では大丸が半分接収されていた。要はドルショップで、仮に入れてもドルが無ければ指をくわえているだけ。
はるか後年のニクソンショックまで、為替レートは1ドル360円に固定されていたから、日本でドル給与を受ける軍人や軍属は、貴族さながらの生活が出来た。下士官でさえ1軒の家に現地妻を住まわせ、メードや庭師が雇えたのである。
今では年末TVに出るだけの東京アメヤ横丁は、元来このPXからの横流しや米兵が持ち出した「宝物」を売る闇市であった。仕事で知り合ったある印刷屋の社長は、この混乱期、米兵をたぶらかして軍用車からガソリンを抜き取ってヤミ売りで儲け、MPに捕まって重労働何年かを食らったと聞いた。
また脱線した。田野城氏の突っ込みがあったが、拙老は当時優等車両には全く関心が無く、元来木製救援車を撮りに行っただけ。せめてもの罪滅ぼしに、後年の撮影を5駒入れておく。マニM3206はまだ接収中で、車記号に付されたMは Military の頭文字、1955年7月京都駅。多分急行「西海」で、元来が米軍専用急行で、のち「車両に余裕」があれば日本人も乗れるように=同一車両での混乗は無かった。
ワキ1改造のナニ2502(1956年11月12日京都)も接収車である。魚雷運搬専用有蓋ボギー貨車なんぞも接収され、返還後は救援車になった。マイネ296は1955年6月30日京都駅。マハネ3433は同日奈良で。これは Troop Sleeper(部隊用簡易寝台車)で、車内を撤去し、両側に折畳みキャンバスベッドを並べただけ。便所は当然洋式に。
スイ991とマイフ971は1957年5月4日尾久で。各地米軍司令官は競争で専用の密閉式展望車を作らせ、優越感に浸っており、返還後は職用車になっている。米国の小鉄道マネジャーだったという、シャグノンなる中佐が軍用列車の全国責任者になり、国鉄を「マイ・レールロード」と称して好き放題をやらかし、嫁さん共々悪名を轟かせている。
全国主要駅には必ずRTO(Railroad Transportation Office)が置かれ、京都駅にも1番線のド真中にあった。天皇用貴賓室も接収こそされずとも、米軍高級軍人やシャグノンが我が物顔で使った筈である。
何度も前後し恐縮だが、米軍(名目は連合軍)が接収した客車には、軍名称として米国の地名が付せられていた。片仮名の記号が読めないからだが、今度は日本人が読めないから、軍番号として4桁の形式番号も付されていた。講和により次第に接収時代の面影は薄れはしたが、1950年代中頃まで続く。
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【マイネ296.jpg : 218.1KB】
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【スイ991.jpg : 255.0KB】
【マイフ971.jpg : 234.6KB】
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