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長老の「作並機関区」、湯口先輩の「国電と客車に関するクイズ」西村雅幸さんと青信号特派員さん、今出川浄福寺さんの「夏の江若鉄道」等、気になる話題や懐かしい話題が続出し、このところゆっくり休んでいる暇がない。
長老に続き、作並機関区の思い出等を書き込みしたいと思うが、本題に入る前に【1480】で昭和34年例会時に長老が撮影された敦賀第2機関区(金ツル二)のクモヤ791について簡単に解説する。
昭和34年3月に川崎車輌で新製された交流試作車で、20Kv60Hz直接式を採用した。車体はクハ153に準じているが、ローカル線での営業運転を考慮して両運転台付、扉は4枚折戸、車内は扉付近の窓1枚分がロングシートの他はクロスシート、扇風機に代わってファンデリアが取付けられていた。
当初の形式車号はモヤ94000を名乗っていたが、10月の称号改正でモヤ791−1、昭和36年10月にクモヤ791−1となった。北陸本線田村〜敦賀間で種々テストが行われたが、シリコン整流器が発達し、シリコン式が採用されることになった。
昭和37年10月に南福岡電車区に転属となり、牽引車として使用されていたが、昭和55年5月廃車となった。交流電化の進展と共にローカル用としてシリコン式で増備されてもよさそうなものであったが、1両のみで終わってしまった。
クローバー会会員で南福岡電車区時代に撮影された方がおられたと思うので、是非画像の公開をお願いしたい。
長老は【1494】で昭和34年9月、作並機関区を訪問された時のことを書き込んでおられるが、私は5年半後の昭和40年3月に訪問している。上野から夜行列車で仙台まで行き、直接仙山線には乗らずに駅前から市電で北仙台駅に行った。乗った車は流線型単車の43であった。(当時の仙台市電については後日書込みの予定)北仙台駅から乗ったのは客車列車ではなく、キハであったように思う。作並に到着すると、程なくED14+スハフ42の奥新川発作並止めの通学列車が到着した。構内に停まっていた、ED9111、ED1727、クハ490−1、ナエ17263等を撮影後仙台に戻った。
1.ED911の引く上り列車 北仙台駅
2.ED144の引く上り通学列車(奥新川発作並行)客車はスハフ42が1両のみ
3.クハ490−1+クモハ491−1
クハ490−1は、伊那電鉄サハニフ400として昭和4年汽車会社で製作、昭和18年鉄道省買収後も引続き飯田線で使用、昭和27年運転台を取付けサハ400に、昭和28年の改番で正式のクハ5900となった。昭和33年交直流試験車に改造、昭和34年の形式称号改正によりクヤ490−1、昭和35年、営業運転実施に伴いクハ490−1となった。相棒のクモヤ491−1は、昭和23年モハ63678として誕生、昭和28年日車支店で整備改造が実施されモハ73050に、昭和33年交直流試験車に改造、昭和34年の形式称号改正によりクモヤ490−2、昭和35年、営業運転実施に伴いクモハ491−1となった。
4.ナエ17263
大正時代に作られた中型車を救援車に改造したものであるが、詳細は不明
5.キ196
撮影日はすべて昭和40年3月22日
H.K.生さんへ
ご質問のマイフ971の台車の件、MD(元マイネ4016が履いていた)が正解です。経歴については既にRP誌等でお調べのことと思いますが、オハフ3349として昭和14年汽車会社で誕生、昭和21年6月、二ノ宮で追突事故で大破し休車、昭和25年大井工場で特別職用車(インスペクションカー)スヤ511に改造、同時に空調設備の設置、台車をスハ4250のTR40と振替、昭和27年、大井工場でスヤ461に改造、昭和28年外国人観光団体用として大井工場でスイ461に改造、この時に台車をマイネ4016のMDと振替、同年6月の改番でマイフ971となりました。
【ED911.jpg : 78.9KB】
【ED144.jpg : 32.5KB】
【クハ490-1.jpg : 38.2KB】
【ナエ17263.jpg : 52.6KB】
【キ196.jpg : 32.6KB】
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