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[1513]総本家・青信号特派員氏「江若 水浴列車」で拙老にも水が向けられ、黙っているわけには行かんと、その実嬉々として参加させていただく。お探しの拙稿とは、鉄道ファン232号(1980年8月)「江若夏の陣」である。
久しぶりの写真は、自分でも忘れていたものが少なくない。特にスクラッチや深い傷でアナログ引き伸ばしをあきらめていたものもある。デジタルの有難さで、何とか老人にもご覧いただける程度には修復できた。
諸兄の気動車やDD13牽引客車列車写真がかなり出たので、老人は老人らしく、蒸機牽引に絞ってご覧頂こう。1955年8月の撮影で、確か3回=8、14、15日に撮影したと記憶する。当時一浪中で、親は当然予備校に行っていると思っていた筈である。水泳場のない高島町まで運行したのは給水設備があったから。
旧関西鉄道の、国鉄昭和3年改番ではホハ2250形式の雑型ボギー客車は合計11両。うち2両が芸備鉄道に払い下げられ、ホハ1、2に。第二次買収では車籍を復活せず、財産として保管(放置)。
江若には1932年3両が払い下げられ、ホハ101〜103になった。戦時中は饗庭野演習場に兵士や学生を運んだ筈である。ホハ104は芸備で再買収になったホハ2を1940年購入した増備車で、先の3両(台車は軸板バネ式)より古く、台車がイコライザー式で台枠構造も異なり、センターピン間隔がかなり狭い。
敗戦後4両共TR11に振り替えられたが、老朽が目立ったホハ101は1955年6月に三井寺下で解体された。小生はたまたまその最中に訪れ、火花と共に足元に落ちてきたトルペードベンチレーターを、咄嗟に隣の貨車床下に蹴り込んだ。
その折は親父のお下がり着古しレインコートを着ていたので、それで「件の一物」を包み、ローマの将軍が兜を持つように、或はメディウサの首を隠し持つかのように山科まで持ち帰った。レインコートはゴミだらけになり、あえなく廃棄された。
このベンチレーターはその後小生の書棚の一角に鎮座すること数十年。家族の冷たい目にも、地震にも耐えながら、現在の狭小集合住宅引越しの際、スペース上多くの本や雑誌と共に泣き泣き処分せざるを得なかった。
話を戻し、このTR11を履いた雑型ボギー客車3両は、夏しか使わないため、座席がオール木製で、東南アジアの3等車のように、かえって涼しいのである。ホハ104のみエアブレーキがなく引き通し管だけ(その事情は鉄道史料116号拙稿参照)で、3両編成の中に入れるのが常態だった。鎧戸は補修が追いつかず板を打ち付けただけで、閉めると光だけでなく通風も100%遮断するため、夏向きではなかった。
この4両の台枠が後日摩訶不思議な客車ナハ→オハ1957〜1960に再生し、諸兄のカメラに収まっている。江若の車両課は、将来編成型気動車に改造する計画だったのだが、床下クリアランス不足でDMH17が装着できず、自重も重すぎ、結局断念した経緯がある。
【水泳臨1955.8.14.jpg : 348.8KB】
【夏の水泳臨1955.8.14.jpg : 345.0KB】
【高島町近く.jpg : 321.9KB】
【C11牽引水泳臨1955.8.14.jpg : 334.9KB】
【三井寺下で.jpg : 329.4KB】
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