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「大西顧問を偲んで」と題された投稿を読むと、故大西顧問が、明治期の京都の鉄道について、史実の発掘に注力されている様子がよく伝わってきます。私も顧問が健在のころ、友の会の行事に潜り込ませてもらったりして、その一端に触れることができました。
大西顧問に案内していただいた京都駅周辺の鉄道遺跡について、いくつかを紹介しましょう。一例を除いて、京都駅ビルの建設、および周辺の再開発で姿を消してしまった、今は見られない遺跡ばかりです。
(1)女人を護る堂宇に残っていた京都鉄道(?)のアーチ煉瓦
京都駅の西、堀川通に面して建つリーガロイヤルホテル京都の北側、住所で言えば岩上通塩小路上ルに粟嶋堂という小さな寺がある。もともとは宗徳寺という寺であったが、境内にある粟嶋明神が女性の守り神として知られ、通称「粟嶋堂」と呼ばれる。
その粟嶋堂の前で熱心に説明する大西顧問【写真1】。指し示す先は、境内に敷き詰められた敷石である。ここに使われているのは煉瓦なのである。しかもよく見ると【写真2】、方形の煉瓦に混じって、台形をした不定形の煉瓦が見られる。
明治期の煉瓦は建築資材の主流であったが、建築物は壊されても、煉瓦は再利用するのが常であったという。この台形をした煉瓦というのは、鉄道において、窓部やアーチ橋など曲線を造る際に使われる。大西顧問は、この煉瓦が鉄道施設から転用されたのではと推察された。
個々の煉瓦の来歴など調べられる由もないが、ちょうど粟嶋堂の前の塩小路通の南側が現・山陰本線の前身、京都鉄道の旧線跡に当たる。開業当時は官鉄京都駅に乗り入れできず、半年間だけだったが、仮駅である大宮駅を造って急場をしのいだ。その仮駅の跡地である梅逕中学校(現在は廃校)も近く、付近には鉄道施設が集中していたと推測される。近くにあった鉄道施設の廃煉瓦を転用したと見るのが自然だろう。
その当時には、中学校と民家を区切る塀の大きさ・形が、あきらかに旧線跡部だけが異なっていた。中学校から一筋東の細い道路にも途中に僅かだがズレが生じている【写真3】。これも手前側が線路跡地と見ることができる。
その後、境内は普通の敷石に置き換わり、もう煉瓦は見られない。大西顧問に案内していただいたのは昭和59年のことだから、もう20年以上も前のことである。
(続く)
【写真1 説明する大西顧問.jpg : 254.9KB】
【写真2 粟嶋堂の煉瓦敷き.jpg : 241.2KB】
【写真3 道路にズレ.jpg : 169.9KB】
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