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マン島の鉄道 その1
この島の訪問は9年前の1999年で、今まで出さなかったのは、この時のフイルムが全部、カブリというか、発色もヌケもピントも悪く、諸兄のご高覧に供すには余りにも恥ずかしかったから。理由は分からず、空港でのレントゲン検査でカブったのではとも考えたが、相棒は被害なし。
結局当時使っていたコストパフォーマンス抜群の無銘ズームレンズ(モノクロではよく写ったが、カラーネガはこれが最初)の欠陥しか考えられない。デジタルで少しは明るく修正したが、見苦しいのは変わりなく、最初にお詫び申し上げておく。
例により選んだ格安フライトはKEで、酒類サービスが極めて悪かったが、缶ビールは栓を抜かずに渡してくれ、若干の取込隠匿に成功してしのぐ。ヒースロー空港でターミナルが増えており、少しオタオタし、やたら歩いた。
地下鉄でラッセル・スクェエアーまで約1時間。Royal National Hotel を予約しており、ご大層な名前からの期待は、大きさだけが応えてくれた。猛烈にだだっ広いYMCAか学生寮並の、質実剛健そのものの安宿舎で、かつての松本・信州会館を髣髴させる。ソーホーまで出てイタ飯屋に入り、ぐちゃぐちゃのゆですぎパスタを辛抱して食す。イギリスのメシが極めて不味い常識を見事裏切らなかった。
翌早朝、朝食は7時からで、無人のパントリーに侵入しパン(しかなかった)を窃取、部屋のインスタントコーヒーで流し込み、50分を要したヒースロー空港ではマンクスのチェックインブースを探し回り、長蛇の列にあせりまくる。何とか間に合ったが、食いさしのハンバーガーとコーヒーを手に搭乗する羽目に。
ところが1時間足らずのフライトなのに、何と本格的な食事が出たのである。後で知ったが、マン島は英王室属領(Crown Dependency)で、独自の政府・議会、法律、通貨を持ち、軍事外交は英国に委託。従ってこの短いフライトも国際線扱いなのであろう。飛行機は3席×2列の96人乗り、シートが立派な革張りだった。
喰いすぎの腹をかかえ、ロナルズウエイ空港でレンタカーを借り出し、島の地図を求め、先ずは終点のポート・エリン=挿入イラスト図左下=へ。Maitland のプレートを付けた11号機(ベイヤー・ピーコック1905年製)がおり、軸配置は1B、先台車が日本では見られない形状である。
この鉄道は英国圏では珍しい軌間914mm(3フィート)で、連結器もインドやマレーシア=植民地並みドロップフック。大昔16番模型で全盛を極めたベーカー式が同じ原理で、ゆっくり突き当てると連結し、開放時はフックを人手で持ち上げる。ここでは反対側車両に安全装置(外れ止め)がある。大井川鉄道にタイから帰還したC56の装着品が展示されている筈。
客車も実に美しく整備された側戸式。日本での側戸式は殆どが車内座席背もたれ以上の空間が一体(加悦SL広場保存のハ4995のように)=仕切りが無く、これはランプの数の節約(あるいは防犯?)かと思われる。
本場英国では完全コンパートが多く、当然その数だけランプがいる。ここの客車は本来ガス灯だったと見え、屋根上にランプケースはない。このボギー客車車掌室がサイドキューポラー式で、我国にも明治期2軸車に存在したが、この出っ張りで一体どれだけ前が良く見えるというのだろう。
天気は良くなかったが終点の一つ手前、Port St.Mary での踏切でまず最初のカルチャーショックを。白い鉄柵扉を閉めて道路交通を閉ざすのだが、列車が通過すると今度は90度回して線路を閉鎖する。動力化されているところもあるが、大方は人力で、ボランティアが列車ごとに車でやってくる。
これは羊が線路に入リ込まないための工夫であることがその後判明した。このマン島だけでなく、次のウェールズでも、カウ・カントリーならぬ、シープ・カントリーである(あった)ことを体感することになる。西洋史で習った「囲い込み運動」(Enclosure Movement)も痛感。
【マン島略図.jpg : 332.1KB】
【マン島鉄道11号機.jpg : 323.5KB】
【側戸式客車.jpg : 342.6KB】
【ドロップフック連結器.jpg : 324.9KB】
【マン島鉄道踏切2.jpg : 315.0KB】
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